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ニューヨーク日記

Nambu: Homage guitar suite for Takuboku Ishikawa (1886-1912) 「ナンブ」石川啄木に捧げるギター組曲

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Una interpretación en vivo de la tercera y de la cuarta parte de ‘Nambu,’ mi suite para voz y guitarra homenajeada a Takuboku Ishikawa, el poeta nacional de la provincia de Iwate.
La presentación empieza después de una imagen de la TV noticia (NHK Iwate) que ha transmitido de mi visita a una secundaria de Taneichi, la provincia de Iwate.

A live performance of the third and final part of ‘Nambu,’ my original guitar suite dedicated to Takuboku Ishikawa (1886-1912,) a beloved Japanese poet born in Iwate province.
The presentation starts after TV news (NHK Iwate) which broadcasted my visit to Shukunohe Junior High school of Taneichi, Iwate province.

岩手県北部の種市(たねいち)町にある宿戸(しゅくのへ)中学校を訪れ、全校生徒と交流を行うところを報じたNHKテレビニュースから始まる、岩手県出身の、いまも多くの人々に愛される短歌の詩人・石川啄木に捧げたギター組曲の、第三、そして最終楽章のライヴパフォーマンス。

もう随分前だが、はじめて公演で盛岡を訪れたとき、なにか他の町とは違う深い情感、景色の美しさ、そして人の心の温かさに感銘を受け、まず「南部幻想曲」というギターソロ曲を作曲したが、その後、石川啄木記念館のご招待を受け、啄木が生前、教鞭をとっていた古い学校でスペシャル・コンサートを行ったことがきっかけとなり、彼について多くを学ぶようになった。

組曲「ナンブ」は、一曲のみのソロだった「南部幻想曲」を、啄木の代表的な四つの短歌を織り込んで、四楽章構成の組曲に作り直したもの。

第三楽章とした「南部幻想曲」、そして歌の入る「サウダーデ 〜北上へ」とタイトルした最終楽章をご覧いただける。

また、このビデオは(本来東京生まれの僕とはなんの縁もゆかりもないはずの)僕の岩手県における、ほとんど家族のような素晴らしい恩人の皆さんのイメージを、各所に挿入してご紹介している。

音楽のおかげで、こうして世界の色々な場所に素敵な家族が持てることは、僕にとって最大の財産だ。

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蛇足だが、僕は10年前まで、シロ・エル・アリエーロという芸名で活動していた。

冒頭のテレビニュースも、その名前で紹介を受けているが、ニューヨークに住む”アリエーロさん”には苦笑する。

2011年、名前を本名に戻した途端、東京の中学や高校時代のクラスメートから嵐のような連絡を受けるようになり、いま彼ら彼女らが大応援団を形成してくれているのは何よりも嬉しいことだ。

Canción de la juventud 青春の歌 ~心の母校・青山学院へのオマージュ~

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Una presentación homenajeada a Aoyama-gakuin, mi alma máter que tenia que despedirse debido de la triste situación de mi familia cuando yo tenia 13 años de la edad, justo antes que encontrar a la música de gran Atahualpa Yupanqui, un momento más importante de mi vida.

An homage presentation to Aoyama-Gakuin, my alma mater I had to bid farewell due to my family situation when I was 13 years of the age.
It was just a few month before I encountered Atahualpa Yupnaqui’s greatest art, and it was also the most important moment in my life.

僕はかつて、青山学院初等部を卒業後、同学院中等部に進学したが、二学期を終えた時点で事情により退学し、世田谷区立の中学校に転校した。

青山学院中等部は、数ある日本の学校のなかでも、最も素晴らしいロケーションといえる青学キャンパスの中、六本木通りに近い、結構勾配の急な坂に面して建築されていたが、僕の同学院での6年半は、身体中の水分が、すべて目から滝のような涙となって流れ落ちてしまったと思えたほどの深い悲しみとともに、この坂を下って去ってゆくことで終わった。

それは、南米の巨匠、アタウアルパ・ユパンキの音楽に心から打ち震え、ギターと真剣に取り組むことになる、わずか数ヶ月前のことだった。

これは、当時の同窓生の女性が誘ってくれ、実に数十年ぶりに中等部を訪れた際に受けたエモーションから作詞作曲したナンバー。

とりあえず作者の僕が歌っているが、将来的に僕が歌うのではなく、オーケストラやピアノをバックに歌うことのできる本格的なシンガーにこの歌を歌ってもらうために、雰囲気をわかってもらえるよう制作したデモ録音
ただ、すぐにニューヨークでひとり候補が見つかったものの、その人物と直接話してみて、なんとなくこの歌を歌ってもらう気になれずに断って以来、長くほったらかしになっていた音源を、今回、東京、ニューヨーク、メキシコシティー、そしてパリ、ストラスブールでのスナップ、さらに僕の、青学時代の写真(!)などとともに、ひとつの物語性を出したビデオとして公開したもの。

正直言って(僕が歌うタイプの歌ではないので)僕の歌唱はイマイチだが、楽しんでいただけると嬉しい。
ギター・オーケストラの伴奏パートはとても気に入っている。

いまでも、当時の同窓生たちの多くが僕を応援してくれていて、こんなに嬉しいことはない。

数年前、初等部と中等部のときの同窓生たちが招待してくれた夕食会で、彼らは僕を、青山学院大学を正式に出たことにする運動を起こそうと思うがどう思うかと聞かれ、本当に涙が出るほど感激したが、彼らに深く感謝したうえで、やはりその提案は思いとどまってもらった。

しかし、そのときどんなに嬉しかったことかわからない。
青山学院は、僕にとっていまでも永遠の心の母校だ。

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ところで、転校した区立の富士中学校は、広い世田谷区のいちばん東の端、数歩歩くともう目黒区にはいる、渋谷にすぐ隣接する代沢というエリアにあった。

もちろん青山学院とは雰囲気を一変したが、生徒たちはみな優秀で、山の手の上品さと、下町風の人なつっこさを実にバランスよく兼ね備えていて、すぐに僕を仲間として受け入れてくれ、学校を代わってからも、実に一度も嫌な思いをしたことはなかった。

青山学院では、初等部の頃から、自宅でのラジカセを使った英語教育が行われていたので、富士中のクラスメートたちには(教科書をまだ持っていたら持ってきてと僕に頼んだ)先生も含めて、たいそう驚かれたりしたが、どうして富士中も教育水準は高く、みなその時点で、青学ではまだ教えられていなかった筆記体で英文をスラスラと書くことができた。

良い環境の学校に転入できたことは、本当にラッキーだった。

青学時代は歌が上手く歌えなかったので、聖歌隊には入れてもらえず、また、速く走ることもできなかったのでラグビー部にも入ることはできなかったが、富士中に移った途端、ギターと音楽が生活のすべてとなり、またどういうわけか水泳部に在籍し、校内大会のバタフライで記録を出したり(!)など、じょじょに身体能力も上がっていった。

アタウアルパ・ユパンキ奏法と実践」なる、楽譜と解説つきの本を執筆(?!?!)したのもこの頃だ。
いまもしそれが残っていたら、大爆笑だっただろう。

また、聴きたいレコードがあると、とにかく東京じゅうのレコード店を歩きまわって探すことに明け暮れ、お小遣いを少しでもレコード代にあてるため、電車は当然児童料金で乗り、さらに帰ってくるときは最低区間だけ買って乗車し、最後、家のそばの駅のプラットホームから飛び降りて帰宅するなどのハナレワザをやってのけていた。

さらに三年生になると、下級生の女の子たちのファンクラブ(!)ができたので、彼女たちを集めて水飲み場に腰かけ、5〜6曲ほどのギターリサイタル(!)など行うようになり、特に影響を受けていたホセ・フェリシアーノばりのサングラスなどかけ、怪しげなスペイン語や英語で歌も歌っていた(!!!!!)

さらに、スペインのギタープレイヤーのマネをして、シャツの胸元を大きく開けて十字架のネックレスをちらつかせるなどのファッションで学校に通っていたので、よく先生に怒られた。
ギターは、おばあちゃんが知り合いからもらってきた、鈴木ヴァイオリン製の古い楽器だったが、ケースがなかったので、いつも裸のまま、小林旭よろしくかついで通学していた。
授業中ギターを弾いていると、当然先生に注意されたが、”いま忙しい”などと答えたので、よく母は学校に呼び出された。

なんといっても生活環境の激変に対する、多少の違和感がずっとつきまとってはいたものの、公立の学校でのびのびと成長できたことは間違いない。

それが、最後の修学旅行の際、かつての渋谷駅の東横線の改札口が集合場所となっていて、ここは、青山学院の中等部の生徒たちの通学路だったため、僕はそこで、もうほとんど忘れかけていた当時のクラスメートたちが颯爽と歩いているのを見た。

久しぶりに見た青学の生徒たちは小粋で、特に女の子たちの、胸ポケットに紋章が縫い取られた、エレガントなグレーのブレザーにチェックの(セミ)ミニスカートという制服が、あまりにチャーミングで光り輝いて見え、埃っぽくさえない学生服に運動靴というおキマリの公立スタイルのいまの自分が、なんともみすぼらしく感じられ、僕は慌てて「俺はここはダメなんだ!」と言って、コソコソと富士中の友達の陰に隠れてしまった。

いま、当時の富士中と、青学の同窓生が一緒になって応援してくれること、それは本当にかけがえない。

H. Villa-Lobos Guitar Album エイトル・ヴィラ=ロボス ギターアルバム

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Introduction: Aria (Cantilena) -Bachianas Brasileras V-
1 Prelude IV (Live in Tokyo, 2011)
2 Prelude III
3 Cadenza -Copacabana Concerto- (Live in New York City, 2011)

イントロダクション:アリア(カンティレーナ)~ブラジル風バッハ第5番~
1 プレリュード第4番 (東京ライヴ)
2 プレリュード第3番
3 カデンツァ ーコパカバーナ協奏曲ー(ニューヨークライヴ)

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僕はかつて、ニューヨーク在住のあるアメリカ人のソプラノ声楽家との出会いから、20世紀を代表するサウンドクリエイターのひとりである、ブラジルのヴィラ=ロボスのギター曲を自分の音楽に導入したが、それは、思ってもみなかったカーネギーホールのステージへと僕を導く階段になってくれた。

これは、そのヴィラ=ロボスのギター曲のなかでも、僕が最も好きな三曲を映像とともに楽しんでいただけるミニアルバム。

プレリュード第4番は、東京公演のなかでプレイしたもの。
ライヴ一発録りというのは、必ずしも100パーセントの出来になることはないが、このパフォーマンスは、まあまあかなという感じ。

イントロダクションの、おなじみの名曲ブラジル風バッハ第5番のアリア(カンティレーナ)と、プレリュード第3番は、はじめてヴィラ=ロボス作品を収録したCDアルバム「カミナンテ」レコーディングの際に録音したものだが、トータルでブラジルの巨匠作品が4曲となってしまい、あまりにもヴィラ=ロボス色が強くなってしまったので、この二曲はラインナップから外した。

未発表音源として残っていたものを、今回はじめて公開。

アリア(カンティレーナ)は、まず伴奏パートを録音し、そのあとヴォーカルパートをギターでかぶせたものだが、この極致ともいえる美しいメロディーは実にギター的。
ギターのデュオ曲としてじゅうぶんいけるだろう。

ラストのカデンツァは、ギター協奏曲「コパカバーナ」の第二と第三楽章の間に置かれた、リズムの譜割を持たない、すべてプレイヤーに委ねられてプレイされる、文字通り「カデンツァ」だが、ソロ曲として独立できる素晴らしいナンバー。

ニューヨークの音楽通が大勢足を運ぶ、伝説的ホットスポット「バージミュージック」における映像とともにお楽しみください。

この「バージミュージック」というのは、実は、ニューヨーク湾に停泊している船のなかをコンサートホールに改装したもので、聴衆は、プレイヤーの背後に広がる、息を呑むようなニューヨークのダウンタウンの夜景とともに音楽を楽しめる。

2010年には、ギターの恩師・故鈴木巌先生が、僕と一緒にジョイント公演をしてくださった思い出の場所だ。

Chopin’s Nocturne for Andrzej Wajda-san アンジェイ・ワイダさんに捧げる’ショパンのノクターン’

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Una rara interpretación de ‘gran pieza clásica’ homenajeada a maestro Andrzej Waida (1926-2016,) el gran director polaco del cine y del teatro, fue grabada durante mi concierto en Tokio, el 14 de abril de 2017.

A live rare “classical masterpiece” performance, dedicated to Mr. Andrzej Wajda (1926-2016,) the greatest Polish film and theater director, recorded live in Tokyo on the 14th of April, 2017.

ショパンの名曲を、ソロギターにアレンジして披露した珍しいライヴパフォーマンス。

ピアノとギターは、その音量と機能性に圧倒的な差がある。
ゆえに、そもそもが特性的なギターの響きを持っているスペイン国民楽派のような作品は別として、特にロマン派ピアノ曲の楽譜をそのままの構成でギターに置き換えても、そのエネルギーとエモーションは伝わらない。

これは、おそらく作者の意図したところを最大限に伝えることができると信じる、僕のオリジナル編曲。

ビデオに出てくる金の懐中時計は、1819年末から1820年初頭にかけて、ポーランドの首都ワルシャワに滞在したイタリアの大歌手アンジェリカ・カタラーニが、当時若干10歳だったショパンにプレゼントしたもの。
彼女は、少年ショパンの傑出した才能に深い感銘を受け、彼のコンサートを主催。感謝の気持ちを込めて、この、記念献呈文が彫り込まれた(ビデオの最後のほうで読める)素晴らしいギフトを贈ったそうだ。

ワルシャワにて、カタラーニより、10歳のショパンへ。1820年1月3日

と、フランス語で表記されている。

ショパンはこの華麗な贈りものを、生涯一度も手元から放すことはなかった。

なお、このビデオは、生前たいへんよくしていただいた、「灰とダイアモンド」、「大理石の男」、「ダントン」などで知られる、ポーランドがいまも世界に誇る大映画監督、アンジェイ・ワイダ(1926−2016)さんへのオマージュとして制作した。

ラストに出てくる本は、僕がはじめてワルシャワで公演した際、コンサートの前日、旧市街のレストランで夕食をご一緒したワイダさんから直接いただいた、米アカデミーの特別名誉賞を受賞された際に記念出版(2000年・非売品)されたスペシャルブックで、最初のページには、ワイダさんの、日本語による僕への直筆メッセージが記されている。

この(愛らしい)日本語は、ワイダさんが、ディナーに同席してくださった日本大使館の外交官に、まず頼んで書いてもらった’例文’を、そのあとその場で書き綴ってくれたもの。

La Gitane / Homage to Kees Van Dongen 「ラ・ジターヌ」キース・ヴァン・ドンゲンに捧げるギターソロ

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Una interpretación en vivo homenajeada a Kees Van Dongen (1877-1968,) el gran pintor Holandés.

An homage live performance to Kees Van Dongen (1877-1968,) the greatest Dutch painter.

視覚芸術、特にモダンアートの類にはあまり関心がないが、オランダに生まれ、後年パリに出て、ピカソらとともに20世紀初頭の前衛芸術を創りあげた巨匠、キース・ヴァン・ドンゲンの絵画には惹かれる。

これは、そのなかでも僕が大好きな作品「ラ・ジターヌ(ジプシー娘)」に敬意を表した、僕の2017年の東京ライヴ映像を中心に構成したビデオ。

ジプシーの女性をテーマにした絵画というのは、その多くは強さが強調されて線がキツく、どちらかというと、匂ってくるようなセクシーさが描かれたものが多いが、このフォーヴィズムの巨匠による、「知りたがり屋さん」と副題がつけられたジプシー娘は、はにかんだような、なんとも愛らしいチャーミングさに溢れていて本当に素晴らしい。

ちょっぴシャイで、”知りたがり屋さん”のジプシー娘が、おそるおそる僕のコンサートに来て、後ろのほうで、何かあったらすぐに逃げてしまうような雰囲気で僕のギターを聴いている…

このビデオは、そんな感じで作ってある。

なお、フランス語のジプシー女性を意味する「la Gitane」は、男性型の「le Gitan」と混ぜこぜになって、日本語では両方とも「ジタン」と表記されるが、僕は原語により近い発音である「ジターヌ」の響きのほうが好きなので、「ラ・ジターヌ」とタイトルした。