映像のグラン・マエストラ 羽田澄子さん

音楽の次に好きなエンターテインメントといえば、なんといっても映画だ。

素晴らしい音楽というものは、必ず美しい映像へと想像力をかきたててくれるものであり、逆に優れた映像というのは、そこから必ず心地よい音楽の調べが漂ってくるものだと思う。

よい映像とよい音の融合、それがぼくにとっての最良の映画である。

そんなぼくが、最近観た映画のなかでもっとも素晴らしいなと思うのが、長きに渡り、常に一貫したスタイルで独自の映像芸術を創りつづけていらっしゃる、日本のドキュメンタリー映画界の第一人者、羽田澄子(はねだすみこ)さんの作品である。

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数年前、東京で、羽田さんの2001年度作品、'-元始、女性は太陽であった-平塚らいてうの生涯'を観て、言葉を失うほどの感銘を受けた。
平塚らいてう('らいちょう'と発音)という女性は、明治時代に生まれた、日本で最初の女性解放運動、婦人運動の指導者である。
話を聞けば、ドキュメンタリーとして、その足跡を追うには格好の人物といえるかもしれないが、すでに本人はこの世を去って40年近くが経過しており、現在、映画の中心人物となって、当時のらいてうについてきちんと回想できる人もいない。
何枚かの写真、そして彼女が残した文献や語録以外は、実際のところ長編映画にできるような資料は皆無といっていいのが現状だ。


ところがこの作品、上映がはじまると、観るものはすぐにその映像の中へ引き込まれてしまう。
そしてハッとわれにかえると、その破天荒なまでに己の意思を貫こうとする精神と、熱い心臓の鼓動をダイレクトに感じながら、後ろもふりかえずにスタスタと自由奔放に歩を進める、この魅力あふれる明治生まれの女性活動家と、実にファンタスティックな2時間20分にわたる旅路をともにしていたことに気づくのである。


実際に存在していない人物を、一切の特殊効果を用いずに、静止している写真や風景、そしてナレーションのみでそこに蘇らせ、細胞をつくり、心臓を脈打たせ、呼吸をさせ、語らせるという羽田さんの傑出した映像構築力。
これはもはや、一般にぼくたちが考える'ドキュメンタリー映画'と呼べるようなものではない。
平塚らいてうをはじめとするこの映画の登場人物たちはみな、実際には動かない映像の中から静かに抜け出ると、きわめてゆっくりと、そして鮮明に観るものの心の中に現われ、内側から心臓をゆさぶるように泣き、歓び、語るという'演技'をエモーショナルに展開する。
なんと驚くようなインパクトをもつ、きわめて稀な'劇映画'だろう。
作る側と見る側の感性が静かにぶつかりあって生まれる至高の芸術だ。
いったい誰がこんな映画をほかに作ることが出来るだろうか...。


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その羽田さんの、目下のところいちばん新しい作品、'山中常盤(やまなかときわ)-2004年度作品-'が、嬉しいことにニューヨーク、リンカーンセンターのウォルター・リード・シアターで公開となり、さっそく観に出かけた。
川喜多かしこさん生誕100年を記念し、歴代の'川喜多賞'受賞監督作品を一挙公開するという、今年の7月30日から8月14日までの間に行われた'ジャパニーズ・スクリーン・クラシックス'というイヴェント。
羽田さんの作品のキャラクターふたつが全面的にデザインされたポスター(写真)が、堂々ニューヨークのストリートを飾った。


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'山中常盤'は、牛若丸とその母、常盤御前の物語を、江戸時代の名絵師、岩佐又兵衛(いわさまたべい)が描いた、全12巻におよぶ古浄瑠璃絵巻である。
これについては、まず羽田さん自身による作品への思いを、ご自身のホームページで読んでいただきたい。


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'山中常盤'は、まさに羽田さんがおっしゃるそのままの映画である。
母が子を思い、そして子が母を思うという普遍的な親子の愛を謳った絵巻に描かれた物語が、映像モダン・テクノロジーと、羽田さんの優れた演出によって'劇映画'として蘇り、そこに牛若丸と常盤御前、そしてそのふたりのストーリーに自身をオーヴァーラップさせた岩佐又兵衛の三人の魂が、時空を超えて新たに生まれた浄瑠璃の調べと融合し、生命を受け、観るものの心のなかに現実のものとして鮮明に宿るのだ。
まさに圧倒される思いだった。

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映画はエンターテインメントだから、もちろん時には現実離れしたCGやバイオレンスも必要だ。
しかし、最近のアメリカの映画を観ていると、その節度やバランスがまったく考えられていないように思える
ティーンエイジャーたちが銃を乱射する事件がおきると、みな必ず、"映画やビデオゲームのように銃をぶっぱなしてみたかった"と、犯行動機を供述する。
感受性の豊かな子どもたちを、いったん誤った方向に導いてしまうと、あとで取り返しのつかないことになる事実を、映像産業に携わる人々は、もう一度認識しなければならない。

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かつて人は素晴らしい映画に出会うと、何度も何度も劇場に足を運び、それを'残像'として'心'にとどめ、いったん上映期間が終わった後は、今度はレコードに録音された'音'に耳をかたむけながら、それぞれの思いをまぶたに浮かべ、感激をあらたにするといった、とても贅沢な楽しみ方をしていた。


それが昨今、上映終了後、こうもはやいスピードでDVDが出回ってしまうようなご時世となれば、もはや'心'も'残像'もあったものではない。
映画製作者たちは、少しでも多くのコピーを売るために、撮影現場だ特殊撮影の種明かしだなどと、'ボーナス'と称した余計なものをつめこみ、その結果、こういった'おまけ'のついていない、映画本編のみの商品は、まったく売れなくなってしまったという。
これは本当に変な話だ。
そのうち映画などというものは、こういった'裏話'に付随する'続編'になりかねない。
こんな状況では、心に残る映画などというものができるほうが不思議なくらいである。
子どものうちから、ただでさえ高くなった映画の入場料を払わされ、間髪おかずに高値のビデオを買わされ、挙句の果てに感受性まで抜かれてしまったら、いったいどんな人間になってしまうのか。


ぼくは、この'山中常盤'を観終わったあと、リンカーンセンターのような場所で、いわゆる映画通のような人々を対象に見せるのも良いが、きちんとした英訳と解説をつけて、アメリカの子供たちに見せることが出来たら素晴らしいなあなどと考えながら帰路についた。


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ぼくは以前、ニューヨーク市の教育委員会から選出されて、マンハッタンの小学校をまわって子供たちに音楽を聴かせるという仕事をしたことがある。
キラキラ輝く瞳の子どもたちを前にした演奏は、感激をあたえる側のはずのこちらが逆に感激してしまうほど、それは素晴らしい経験となった。

子供たちの前では、つねにオーセンティック(正真正銘)でなければいけない。
フェイク(偽)をすることは決して許されないのである。

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羽田さんが、現在準備中の作品は、かつて日本から中国やモンゴルへ渡った開拓団の人々のドキュメンタリーだそうだ。
これについても、生きている人は当然のことながら一人もおらず、資料などというものも殆どないに等しいのではないだろうか。
話にきくと、こういった開拓団の人々は、日本へ戻ってからも、結局行き場を失い、ふたたび北海道や東北などの辺境の地へと開拓にはいったという。
ぼくが現在、たいへん縁の深い岩手県の奥中山高原も、かつて開拓団によって切り拓かれた土地だ。
新たなる'ハネダ・マジック'によって、もしかしたらかの地の人々の姿が、また違ったアングルから見えてくるかもしれない。
ぼくは、この作品の公開をとても楽しみにしている。

とりくむ分野はちがえども、同じ芸術に携わる素晴らしい大先輩であり、そして真に優れたこのヴェテラン女性映像作家に、心からの賛辞をお送りしたい。


¡Viva, Gran Maestra Sumiko Haneda!

2008年、8月26日 記

2008年08月26日 | コメント (0) | トラックバック (0) |