キューバの名優、ホルヘ・ぺルゴリーア

私のCDアルバム、‘ナンブ’の冒頭におさめられた‘ホライゾン ( ディエゴに捧げる)’というナンバーがありますが、これは実は、ある映画の主人公からインスピレーションを受けて作ったもので、その人物の劇中での名前がディエゴでした(ラテン系の人々にはよく、“マラドーナのことですか?”と聞かれ苦笑いすることもありますが)。
1994年に日本で公開された、キューバの名匠、トマス・グティエレス・アレア監督による‘苺とチョコレート’がそれで、ロードショー前に私はひょんなことからこの映画の下訳(字幕スーパーのもとになる、いわばシナリオおこし)を頼まれたのです。
キューバから日本に送られてきて、そのあとさらにニューヨークの私のところに届けられた一本のビデオテープは決してよい状態の画質とはいえませんでしたが、そんなことはまったく気にならない、深い詩情と力強さにあふれる美しい映画で、このアルバイト(?)を終える頃には、私はすっかり‘苺とチョコレート’と、この映画の主人公‘ディエゴ’のファンになっていました。


そんな折、今度はこのディエゴを演じた俳優が日本にキャンペーンのために同年の夏に来日することになり、たまたまそのときにツアーで日本にいる予定の私に、彼の滞在中のエスコート役の白羽の矢が立ちました。日程的にはタイトになりますが、私も彼にたいへん興味を持っていたので、私の方のコンサートの主催者にも相談し、日程を調節して、結局一週間の間、このホルヘ・ぺルゴリーアという名の若い俳優に付き添い、やはりキャンペーンで訪れた京都の記者会見ではなんと通訳まですることになりました。



左)ホルヘ・ぺルゴリーアと私。東京歌舞伎座にて。
右)京都の祇園まつりの山車の前で。一緒にいるとよく“ご兄弟ですか?”と聞かれました。


キューバ出身で、日本と聞いてすぐ思い浮かぶのは‘座頭市’だけ。慣れない環境で東洋人たちにかこまれて、はじめはホルヘもずいぶんと神経質になっていましたが、ニューヨークにいるほぼラティーノのような私とは徐々に打ち解けて、最後にはいいアミーゴになりました。
“俺達、必ずそのうちなにか一緒にやろうな”と言って、一緒に踊りに行った京都のディスコの帰り、真夜中にタクシーの後部座席で肩を組んでともに歌ったユパンキの‘牛車にゆられて’(さぞ運転手さんはおどろいたでしょう)、いまも昨日のことのようです。
私がどうしてもラジオに出なくてはならない日と、彼が離日する日がかさなってしまったとき、“きみは空港に来てくれないのか”と淋しそうでした。
その後彼はこの作品の大成功によって、あのぺドロ・アルモドバルをはじめとするスペインやラテンアメリカを代表する映画人たちに次から次へと抜擢されるようになり、いまや押しも押されぬ、キューバのみならずラテンアメリカを代表する大俳優のひとりとなりました。
私はいつかきっと、このホルヘとなにかのかたちでコラボレーションができるような気がしています。



左)京都の記者会見
右)ホルヘのことを書いた私のエッセイ‘友’ 1994年

2005年07月28日 | Hombres Grandes,Criollos Fantasticos(大いなる人々、そして素晴らしき南米人たち)