Estoy completando a mi arreglo original de ‘Erbarme Dich, mein Gott (Ten piedad de mí, Dios mío’, una magnifica aria de “Matthäuspassion“ para estrenar en la catedral de Santa María en Tokio (13/11/25).
Estoy muy satisfecho, y espero mucho a la primera actuación.
現在、5週間と5日後(11月13日)に迫った東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルにおいてプレイする、バッハの「マタイ受難曲」の名アリア“主よ、憐れみたまえ”のオリジナルアレンジの総仕上げを行なっている。
(僕はアレンジの際、楽譜は一切用いない。すべて耳で音を取り、まずコードから起こしてそのあと味付けするが、昔からバッハのコード起こしは最高の耳のトレーニングだった。音大などに行かなくても自然に作曲を学ぶことができたのは、おそらくこの経験に由来する。)
まさか自分が、この曲をステージでパフォーマンスするとは思わなかったが、実際、こうして自分でアレンジを行ってみると、今までまったく気がつかなかった、バッハの他の器楽作品(例えばリュート組曲BWV. 997)などとの神秘的関連性や、また反対に、実に微笑ましいような愛らしさが見えてきて、ますますバッハ・マジックの虜になるようだ。
「主よ、憐れみたまえ」はロ短調ではじまり、すぐに嬰ヘ短調に転調後、バッハ独壇場といえる天空のサウンドトリップを繰り広げるが、ラスト、再びロ短調に戻る部分は、自分でギターアレンジを行う前には全く気づかなかった「面白さ」が秘められていた。
とにかくあまりに「強引な」転調で、バッハ本人も楽典だのなんだのとは関係ない手合いで、まさに「エイやっ!」とばかりに持って行ったのがよくわかる。
こういった、ミュージシャンでなければわからない「遊び」は、よく彼の器楽作品に見られるものだが、まさかこの至高の受難曲アリアでも「やっていた」とは本当に嬉しくなる。
ただし、そういった‘偉大なる音楽の父’の「遊び」は、決して一聴ではわからない。自分でプレイしたときにはじめて気がつく、言ってみれば、バッハの音楽というのは、真のミュージシャンによって、真のミュージシャンを目指すプレイヤーたちのために書かれた極上のサウンドなのだ。そしておそらく、一見音も小さく、広い音域も持たないが、このギターという、どんな楽器よりも無限の可能性を秘めた楽器こそが、その「神秘」と「Fun」を探るのに最も適しているのかもしれない。
バッハの時代、ギターはまだ機能的な楽器として確立されておらず、彼もギターのために一曲も作曲を残していない。
バッハは、音楽のクリエイション同様、寸暇を惜しんでは、新しい楽器の開発に没頭した人だった。
彼の作品をプレイすると、この素晴らしい超人クリエイターが、近未来ギターという、稀有で優れた楽器の到来をあたかも見越し、その響きを思い浮かべながら作ったとしか思えないような曲がいくつもある。
自分で音楽をプレイするもののほうが、そうでないものよりバッハをより理解できることは間違いない。その点でバッハの音楽は、ベートーヴェンやモーツァルト、そしてショパンといったクリエイターたちと本質的に異なるものだ。
もちろん彼らがバッハから大きな影響を受け、ロマンティック音楽として発展させたことは言うまでもない…
しかしながら、やはりバッハ作品の根底にある時空を超えた宇宙観、そして古代インド音楽に通じるような変幻自在のフィーリングは、決して何人たりとも及ぶものではない。
僕は今後も、ミュージシャンではない人々でも、バッハの「楽しさ」をわかってもらえるようなプレイを続ける。
僕にとってバッハとは、最も至高な「プレイフル(遊べる)」ミュージックなのだ。
かのヴィラ-ロボスは、“バッハは世界を結ぶフォルクローレ”という名言を残している。
11月13日の東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルは、タイトル通り、広島原爆投下80年を銘記し、世界平和を祈念するものだが、同時に僕の、友情、愛情、そして連帯への祈りを込めたオリジナルアレンジによるバッハ作品の数々を、心まで楽しんでいただく夕べとしたい
He alcanzado un hito al realizar cuatro funciones de mi música única, que se basa en Atahualpa Yupanqui argentino, incorpora a Bach y también introduce la esencia literaria de Lorca de España, en el Museo Memorial Hamada Hirosuke (9/11) y la Catedral de Santa María de Tokio(13/9). Como siento que la dirección de mi música finalmente se está acercando a su destino final, me dirijo hacia la literatura japonesa con una fuerza furiosa.
Tal vez fue una inevitabilidad natural que surgió con el paso de los años, a medida que las diversas experiencias que había cultivado hasta entonces se combinaban con mis sentimientos por mi país natal, que sentía precisamente porque estaba en Nueva York, y porque estaba lleno de culturas diferentes.
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アルゼンチンのユパンキをベースに、バッハを組み込み、さらにスペインのロルカの文学エッセンスを導入した独自の音楽を、今回11月の浜田広介記念館、そして東京カテドラル聖マリア大聖堂ほかにおいて四公演行うことで、ひとつのマイルストーン(標石)を迎える今、僕は現在、自分の音楽の方向性が、いよいよ最終地点に進むに際し、怒涛のような勢いで日本文学へと向かってゆくのを感じている。
それは、これまで培ってきた多様な経験と、そして異文化が渦巻くニューヨークにいるからからこそ感じられる、遠い故国への思いが重なり、結果、長い年月をかけて生まれた願ってもない「必然」だったのかもしれない。
「卑弥呼」のストーリーや、中勘助の傑作文学「銀の匙(さじ)」は、僕が生まれた国が持つ、たとえようもない旧世紀の神秘性を現代に運ぶもの。
僕はまず、こういった至高の神秘性を、唯一無二の楽器ギターのエンターテインメントとして創り上げてゆく考えでいる。