11/16(sun) ユパンキ、ヴィラ-ロボス「南米フォルクローレの真髄、そしてbeyond」六本木キーストーンクラブ東京ライヴ

今秋11月13日に行う、東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルは、数々のバッハの作品を、全く新しいギター音楽のスタイルでプレイする、どちらかというとクラシックをベースにおいたプレイヤーとしての僕をお見せする公演です。

そしてその3日後、11月16日(日)の昼下がり、東京六本木にあるナイスヴェニュー、キーストーンクラブ東京において、あくまでも南米に根ざすレパートリーを多くプレイする、カテドラルとはガラリと雰囲気を変えたスペシャルライヴを行う運びとなりました。

このライヴでは、11月9日に、山形県高畠にある、日本を代表する童話作家浜田広介(はまだひろすけ)さんの記念館において行う二公演のハイライト、当地の児童の朗読を伴って初演する、ひろすけさんの不朽の名作「泣いた赤鬼」にモティーフを得た新作“青い友だちの手紙」を東京初演する予定です。

かつて、ひろすけさんのご次男であった音楽評論家の濱田滋郎さんは、「現代ギター誌」の誌面対談の際、僕がプレイするヴィラ-ロボス作品に対し;

“クラシックのギタリストがヴィラ-ロボスを弾くと、だいたい同じような音で、同じようなスタンスのものが聞こえてくるけれど、史朗さんのヴィラ-ロボスは全く画期的で新鮮。素晴らしいです。”

と、絶賛してくださいました。

このライヴの第一部で僕は、ユパンキ作品とともに、ヴィラ-ロボスのニ曲のソロをプレイする予定です。

たいへん信頼しているシャンソン歌手黒川泰子さんをゲストに招いて行う東京アンコールライヴ。
ぜひみなさまのお越しをお待ちしています!

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大竹史朗(g & vo)東京ライヴ
「南米フォルクローレの真髄、そしてBeyond」

ゲスト:黒川泰子(vo)

2025年11月16日(日)
13時30分開場
14時開演

於: 六本木キーストーンクラブ東京
港区六本木7−4−12 ジャスミンビル 2F

ミュージックチャージ:¥7,000

演奏予定曲目

第一部「大竹史朗 南米フォルクローレの真髄」

1. アダージョとアレグロ
  / J.S.バッハ(大竹史朗編)

2. 栗毛の馬
  / アタウアルパ・ユパンキ、パブロ・デル・セーロ

3. ぺぺのサンバ≪愛犬へのオマージュ≫
  / 大竹史朗

4. トゥクマンの郷愁
  / アタウアルパ・ユパンキ

5. ふたつのブラジルの調べ
  ・プレリュード第3番
  ・マズルカ・ショーロ
  / エイトル・ヴィラ-ロボス

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第二部「ゲスト黒川泰子さんを迎えて~Beyond~」

6. 青い友だちの手紙
  ≪浜田広介「泣いた赤鬼」へのオマージュ≫
  / 大竹史朗

7. 愛する玉枝
  ≪栗原安秀へのオマージュ≫
  / 大竹史朗

8. シギリージャの小径
  ≪ガルシア・ロルカへのオマージュ≫
  / フェデリコ・ガルシア・ロルカ、大竹史朗

ライヴのお問い合わせ、ご予約は;
沖田企画 okitaplan@outlook.com

 

東京カテドラル公演「主よ、憐れみたまえ(マタイ受難曲)」と、ピアソラの「アヴェマリア」オリジナルギターアレンジ

開演まであと5週間を切った、今年11月13日の東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルにおいて、僕は、全七曲のプログラムのうち、二曲のソプラノを伴うパフォーマンスを、どちらも完全オリジナルアレンジとともに行う。

数日前、そのうちの一曲、バッハの矜持等マタイ受難曲の名アリア「主よ、憐れみたまえ」のアレンジが仕上がり、出来にとても満足している。

上記のビデオは、けっこうよい音で録れたので、イントロ部分のみ使い、コンサートの短いPRとしたもの。
オーケストラの情感豊かな響きを活かしながら、新しいギターの音楽としての生命(いのち)が加えられたものとして、僕はこの初演をとても楽しみにしている。

僕は通常、コンサートの際、目の前に譜面台を置いてプレイするということを決してしないが、今回、このナンバーに限り、自分自身のアレンジをあえて暗譜せず、写真のような「秘密兵器㊙️」を傍らのテーブルに置いてプレイすることにした。

理由は、今回ほかのナンバーも、ほぼすべて革新的なオリジナルアレンジによるバッハなので、ミックスアップのリスクを避けるため。

高さ約15センチのミニミニ譜面台。

譜面といっても、ただコードと進行のみ書きこんである、いわば暗号表のようなものなので、このサイズでじゅうぶん。

先日、カリフォルニアの骨董品店から取り寄せたもので、東京カテドラルの雰囲気にバッチリ。

軽いブラス金属製で、トップが回転する。

バッハは、作品のなかで、つねに魔法のような転調を行い、それが天空を舞うような展開を繰り広げたあと、ラスト再びもとの調に戻るという、まさにサウンドトリップともいうべき作風で聴くものを魅了するが、ときに「アレっ」と思えるような、かなり強引な「遊び」というか「オフザケ」を行いながら、もとの調子に押し戻すことがよくある。

バッハの転調というのは、ほとんどのリスナーが気がつかない「技」であり、それは、ただ短調が途中で長調になってまた戻るとか、半音上がってドラマティックに演出するといった類のものではなく、まさに古代インド音楽に通じるような、変幻自在の自由なフィーリング。もしバッハが、当時のヨーロッパ音楽の楽典のみしか理解していない作曲家であったら、決してあの「平均律ピアノ曲集」などというものは、決して世に残すことはできなかっただろう。

確かに平均律で書かれてはいるが、あたかも一音と一音の間に、さらにもっと音があるのではと思えるようなマジック…

真のミュージシャンによって、真のミュージシャンを目指すものたちのために、“音楽とはプレイする(楽しむ)ものなんだよ”ということを余すことなく教えてくれる、それがバッハの音楽なのだ。

***

いっぽう、東京カテドラルにおいて、僕はもう一曲(これは自分の意思ではなく)、ピアソラの「アヴェマリア」を、やはりソプラノを伴ってプレイする。

僕は、「ドブレアーの哀しみ」や、「天使の復活」といったネオタンゴナンバーを心から素晴らしいと思うが、こういった「クラシックもどき」のピアソラ作品の出来は、決して優れているとは思わない。ピアソラのこういった「もどき」作品については、彼が単に冗談まじりに作ったもので、それほど真剣に考えていたとは到底思えない。

「アヴェマリア」は、転調の魔術師バッハをまねて作った最たるものだと思うが、それはまさに「もどき」以外のなにものでもなく、なぜこのような歌が、いまも「猫も杓子も」的に歌われ続けているのかまったく理解できない。

はっきり言う。
もしこの歌をよいというものがいたなら、それは全く音楽というものを理解していないと言い切れる。
そしてそれが、もしも音楽家だとしたら、それは音楽の理解度の低さに加え、さらに、誰かが書いた音符を弾くだけの、自分ではオリジナルのクリエイトすることのできない「歌手を含む奏者」であって、決して「プレイヤー」ではない。

僕は、素晴らしいと思うミュージシャンを「プレイヤー」と呼び、そうでないと思うものは「奏者」と呼ぶ。
プレイヤーの訳は、決して奏者や選手ではない。
日本語には、プレイヤーの正確な訳が存在しない。

ピアソラの「もどき」転調には、バッハとは似ても似つかない、幼稚さと変化の無さしか感じられない。
それはピアソラ本人も、”俺とバッハじゃくらべものにならねえな…“と、嘆くほどにわかっていただろう。
そもそもバッハや、他の優れた先人クリエイターたちと比較するようなものでは決してない。

ピアソラの「アヴェマリア」ほかの「もどきクラシック」作品は、全っくもって評価に値するものではない。
これは、20世紀の終わり、クオリティの崩壊、そして良いレパートリーの欠如によるマンネリにあえいでいた愚かなクラシック業界と一部の「奏者」たちが、作曲者を全く尊重せず、ただ苦しまぎれに取り込んだ「ナンセンス」に他ならない。

正直なところ、東京カテドラルにおける、僕の「アヴェマリア」は、全くモティヴェーションが湧かず難渋していたが、なんとか今日、すべてのアレンジを終えた。
ハ長調からヘ長調に転調してまたもとに戻るという、まさにバッハもどきの「コピー」は、おそらく僕が、完全な「仕事」として割り切ってアレンジ、プレイする最初のものになるだろう。

転調をスムースにトランジッションするために、ダブルネックギターという特殊楽器をプレイする可能性もあったが、そこはピアソラの「冗談」転調。バッハのように天空的ではなく、ただの「並」で「幼稚」、そして「創作性皆無」だった。偉大なる音楽の父の作品のあとに取り組むようなものではない。
このようなものは、冗談だったということで納得がゆくだけの「駄作」でしかない。
この曲でアストル・ピアソラを評価することは、絶対にあってはならない。

当日の使用ギターについては、通常のギター一台でじゅうぶんいけるが、面白いのでダブルネックを使うかもしれない。この曲には「冗談的シャレ」で臨むのもよいだろう。
いやいややるものを、そう感じさせず、すべての聴衆に、“ああよいものを聴いた”と思わせるマジック…
それが、今回の僕の「アヴェマリア」になるだろう。

ピアソラ本人だって、バッハの名アリアといっしょにプレイされることは、恐れ多くて望まないはずだ。
ピアソラは、そのような愚かなミュージシャンではなかったはず。

ピアソラは、素晴らしいバンドネオンプレイヤーであったことは疑う余地もない。こういった彼の「もどき」作品が、このように分不相応な蔓延をしたのは、ピアソラ本人が悪いのではない。すべて愚かな音楽業界による、故人の意志を無視した、無礼極まるおこないによるものだ。

僕は、ブエノスアイレスをはじめて歩いたとき、街角という街角から彼のバンドネオンの音が聞こえてきたような気がしたことを、いまでもよく覚えている。
ピアソラが、誰よりもブエノスアイレスを愛した、不世出のバンドネオンプレイヤーだったことは言うまでもない。

単に冗談まじりで作ったものが、本人の意志とは関係なく世に残ってしまって歌。
僕のアレンジは、そのあたりをリスペクトするものになるだろう。

もしピアソラが、自分を「現代のバッハ」と勘違いしてこの曲を作ったとしたら、彼はただの思い上がった愚か者以外のなにものでもない。
「アヴェマリア」は単なる「戯れ」であり、彼は決してそんな人間ではなかったと信じている。

それにしても、これほどアレンジがやりづらく、身が入らなかった音楽も他に類をみない…

今日自分は、おそらく初めてだろう。人が作ったものをかなり手厳しく酷評したが、それはアストル・ピアソラというミュージシャンが、「アヴェマリア」のような音楽で評価される、単なる「マネごと」Bクラスの程度の低いクリエイターではないからだ。
彼の本来の音楽は、あくまでもブエノスアイレスの街角に属するもので、それは全く他のプレイヤーの追従を許さない至高の調べであるということを、最後にもう一度つけ加える。

僕が今日批判したのは、ピアソラ本人ではなく、彼の意志を尊重せずにこのような歌を蔓延させてしまった、腐った音楽業界と、それに乗じた一部の愚かな器楽奏者たちだと考えていただければ嬉しい。

それにしても、やはりバッハは素晴らしい。
ただ、そこに尽きる🫵

Erbarme Dich, mein Gott (Ten piedad de mí, Dios mío) para estrenar バ ッハ「主よ、憐れみたまえ(マタイ受難曲)」東京カテドラル聖マリア大聖堂初演

Estoy completando a mi arreglo original de ‘Erbarme Dich, mein Gott (Ten piedad de mí, Dios mío’, una magnifica aria de “Matthäuspassion“ para estrenar en la catedral de Santa María en Tokio (13/11/25).
Estoy muy satisfecho, y espero mucho a la primera actuación.

現在、5週間と5日後(11月13日)に迫った東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルにおいてプレイする、バッハの「マタイ受難曲」の名アリア“主よ、憐れみたまえ”のオリジナルアレンジの総仕上げを行なっている。

(僕はアレンジの際、楽譜は一切用いない。すべて耳で音を取り、まずコードから起こしてそのあと味付けするが、昔からバッハのコード起こしは最高の耳のトレーニングだった。音大などに行かなくても自然に作曲を学ぶことができたのは、おそらくこの経験に由来する。)

まさか自分が、この曲をステージでパフォーマンスするとは思わなかったが、実際、こうして自分でアレンジを行ってみると、今までまったく気がつかなかった、バッハの他の器楽作品(例えばリュート組曲BWV. 997)などとの神秘的関連性や、また反対に、実に微笑ましいような愛らしさが見えてきて、ますますバッハ・マジックの虜になるようだ。

「主よ、憐れみたまえ」はロ短調ではじまり、すぐに嬰ヘ短調に転調後、バッハ独壇場といえる天空のサウンドトリップを繰り広げるが、ラスト、再びロ短調に戻る部分は、自分でギターアレンジを行う前には全く気づかなかった「面白さ」が秘められていた。
とにかくあまりに「強引な」転調で、バッハ本人も楽典だのなんだのとは関係ない手合いで、まさに「エイやっ!」とばかりに持って行ったのがよくわかる。
こういった、ミュージシャンでなければわからない「遊び」は、よく彼の器楽作品に見られるものだが、まさかこの至高の受難曲アリアでも「やっていた」とは本当に嬉しくなる。

ただし、そういった‘偉大なる音楽の父’の「遊び」は、決して一聴ではわからない。自分でプレイしたときにはじめて気がつく、言ってみれば、バッハの音楽というのは、真のミュージシャンによって、真のミュージシャンを目指すプレイヤーたちのために書かれた極上のサウンドなのだ。そしておそらく、一見音も小さく、広い音域も持たないが、このギターという、どんな楽器よりも無限の可能性を秘めた楽器こそが、その「神秘」と「Fun」を探るのに最も適しているのかもしれない。

バッハの時代、ギターはまだ機能的な楽器として確立されておらず、彼もギターのために一曲も作曲を残していない。
バッハは、音楽のクリエイション同様、寸暇を惜しんでは、新しい楽器の開発に没頭した人だった。
彼の作品をプレイすると、この素晴らしい超人クリエイターが、近未来ギターという、稀有で優れた楽器の到来をあたかも見越し、その響きを思い浮かべながら作ったとしか思えないような曲がいくつもある。

自分で音楽をプレイするもののほうが、そうでないものよりバッハをより理解できることは間違いない。その点でバッハの音楽は、ベートーヴェンやモーツァルト、そしてショパンといったクリエイターたちと本質的に異なるものだ。

もちろん彼らがバッハから大きな影響を受け、ロマンティック音楽として発展させたことは言うまでもない…

しかしながら、やはりバッハ作品の根底にある時空を超えた宇宙観、そして古代インド音楽に通じるような変幻自在のフィーリングは、決して何人たりとも及ぶものではない。

僕は今後も、ミュージシャンではない人々でも、バッハの「楽しさ」をわかってもらえるようなプレイを続ける。
僕にとってバッハとは、最も至高な「プレイフル(遊べる)」ミュージックなのだ。

かのヴィラ-ロボスは、“バッハは世界を結ぶフォルクローレ”という名言を残している。

11月13日の東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルは、タイトル通り、広島原爆投下80年を銘記し、世界平和を祈念するものだが、同時に僕の、友情、愛情、そして連帯への祈りを込めたオリジナルアレンジによるバッハ作品の数々を、心まで楽しんでいただく夕べとしたい

He alcanzado un hito al realizar cuatro funciones de mi música única, que se basa en Atahualpa Yupanqui argentino, incorpora a Bach y también introduce la esencia literaria de Lorca de España, en el Museo Memorial Hamada Hirosuke (9/11) y la Catedral de Santa María de Tokio(13/9). Como siento que la dirección de mi música finalmente se está acercando a su destino final, me dirijo hacia la literatura japonesa con una fuerza furiosa.

Tal vez fue una inevitabilidad natural que surgió con el paso de los años, a medida que las diversas experiencias que había cultivado hasta entonces se combinaban con mis sentimientos por mi país natal, que sentía precisamente porque estaba en Nueva York, y porque estaba lleno de culturas diferentes.

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アルゼンチンのユパンキをベースに、バッハを組み込み、さらにスペインのロルカの文学エッセンスを導入した独自の音楽を、今回11月の浜田広介記念館、そして東京カテドラル聖マリア大聖堂ほかにおいて四公演行うことで、ひとつのマイルストーン(標石)を迎える今、僕は現在、自分の音楽の方向性が、いよいよ最終地点に進むに際し、怒涛のような勢いで日本文学へと向かってゆくのを感じている。

それは、これまで培ってきた多様な経験と、そして異文化が渦巻くニューヨークにいるからからこそ感じられる、遠い故国への思いが重なり、結果、長い年月をかけて生まれた願ってもない「必然」だったのかもしれない。

「卑弥呼」のストーリーや、中勘助の傑作文学「銀の匙(さじ)」は、僕が生まれた国が持つ、たとえようもない旧世紀の神秘性を現代に運ぶもの。
僕はまず、こういった至高の神秘性を、唯一無二の楽器ギターのエンターテインメントとして創り上げてゆく考えでいる。

アンダルシアのレモンと、イタリアの濃厚なハチミツに、アタウアルパ・ユパンキの魂が溶け合う、静寂のグロリエータ(四阿)「カンテホンド・イベロアメリカーノ」の音楽世界

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