開演まであと5週間を切った、今年11月13日の東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルにおいて、僕は、全七曲のプログラムのうち、二曲のソプラノを伴うパフォーマンスを、どちらも完全オリジナルアレンジとともに行う。
数日前、そのうちの一曲、バッハの矜持等マタイ受難曲の名アリア「主よ、憐れみたまえ」のアレンジが仕上がり、出来にとても満足している。
上記のビデオは、けっこうよい音で録れたので、イントロ部分のみ使い、コンサートの短いPRとしたもの。
オーケストラの情感豊かな響きを活かしながら、新しいギターの音楽としての生命(いのち)が加えられたものとして、僕はこの初演をとても楽しみにしている。
僕は通常、コンサートの際、目の前に譜面台を置いてプレイするということを決してしないが、今回、このナンバーに限り、自分自身のアレンジをあえて暗譜せず、写真のような「秘密兵器㊙️」を傍らのテーブルに置いてプレイすることにした。
理由は、今回ほかのナンバーも、ほぼすべて革新的なオリジナルアレンジによるバッハなので、ミックスアップのリスクを避けるため。
高さ約15センチのミニミニ譜面台。
譜面といっても、ただコードと進行のみ書きこんである、いわば暗号表のようなものなので、このサイズでじゅうぶん。
先日、カリフォルニアの骨董品店から取り寄せたもので、東京カテドラルの雰囲気にバッチリ。
軽いブラス金属製で、トップが回転する。
バッハは、作品のなかで、つねに魔法のような転調を行い、それが天空を舞うような展開を繰り広げたあと、ラスト再びもとの調に戻るという、まさにサウンドトリップともいうべき作風で聴くものを魅了するが、ときに「アレっ」と思えるような、かなり強引な「遊び」というか「オフザケ」を行いながら、もとの調子に押し戻すことがよくある。
バッハの転調というのは、ほとんどのリスナーが気がつかない「技」であり、それは、ただ短調が途中で長調になってまた戻るとか、半音上がってドラマティックに演出するといった類のものではなく、まさに古代インド音楽に通じるような、変幻自在の自由なフィーリング。もしバッハが、当時のヨーロッパ音楽の楽典のみしか理解していない作曲家であったら、決してあの「平均律ピアノ曲集」などというものは、決して世に残すことはできなかっただろう。
確かに平均律で書かれてはいるが、あたかも一音と一音の間に、さらにもっと音があるのではと思えるようなマジック…
真のミュージシャンによって、真のミュージシャンを目指すものたちのために、“音楽とはプレイする(楽しむ)ものなんだよ”ということを余すことなく教えてくれる、それがバッハの音楽なのだ。
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いっぽう、東京カテドラルにおいて、僕はもう一曲(これは自分の意思ではなく)、ピアソラの「アヴェマリア」を、やはりソプラノを伴ってプレイする。
僕は、「ドブレアーの哀しみ」や、「天使の復活」といったネオタンゴナンバーを心から素晴らしいと思うが、こういった「クラシックもどき」のピアソラ作品の出来は、決して優れているとは思わない。ピアソラのこういった「もどき」作品については、彼が単に冗談まじりに作ったもので、それほど真剣に考えていたとは到底思えない。
「アヴェマリア」は、転調の魔術師バッハをまねて作った最たるものだと思うが、それはまさに「もどき」以外のなにものでもなく、なぜこのような歌が、いまも「猫も杓子も」的に歌われ続けているのかまったく理解できない。
はっきり言う。
もしこの歌をよいというものがいたなら、それは全く音楽というものを理解していないと言い切れる。
そしてそれが、もしも音楽家だとしたら、それは音楽の理解度の低さに加え、さらに、誰かが書いた音符を弾くだけの、自分ではオリジナルのクリエイトすることのできない「歌手を含む奏者」であって、決して「プレイヤー」ではない。
僕は、素晴らしいと思うミュージシャンを「プレイヤー」と呼び、そうでないと思うものは「奏者」と呼ぶ。
プレイヤーの訳は、決して奏者や選手ではない。
日本語には、プレイヤーの正確な訳が存在しない。
ピアソラの「もどき」転調には、バッハとは似ても似つかない、幼稚さと変化の無さしか感じられない。
それはピアソラ本人も、”俺とバッハじゃくらべものにならねえな…“と、嘆くほどにわかっていただろう。
そもそもバッハや、他の優れた先人クリエイターたちと比較するようなものでは決してない。
ピアソラの「アヴェマリア」ほかの「もどきクラシック」作品は、全っくもって評価に値するものではない。
これは、20世紀の終わり、クオリティの崩壊、そして良いレパートリーの欠如によるマンネリにあえいでいた愚かなクラシック業界と一部の「奏者」たちが、作曲者を全く尊重せず、ただ苦しまぎれに取り込んだ「ナンセンス」に他ならない。
正直なところ、東京カテドラルにおける、僕の「アヴェマリア」は、全くモティヴェーションが湧かず難渋していたが、なんとか今日、すべてのアレンジを終えた。
ハ長調からヘ長調に転調してまたもとに戻るという、まさにバッハもどきの「コピー」は、おそらく僕が、完全な「仕事」として割り切ってアレンジ、プレイする最初のものになるだろう。
転調をスムースにトランジッションするために、ダブルネックギターという特殊楽器をプレイする可能性もあったが、そこはピアソラの「冗談」転調。バッハのように天空的ではなく、ただの「並」で「幼稚」、そして「創作性皆無」だった。偉大なる音楽の父の作品のあとに取り組むようなものではない。
このようなものは、冗談だったということで納得がゆくだけの「駄作」でしかない。
この曲でアストル・ピアソラを評価することは、絶対にあってはならない。
当日の使用ギターについては、通常のギター一台でじゅうぶんいけるが、面白いのでダブルネックを使うかもしれない。この曲には「冗談的シャレ」で臨むのもよいだろう。
いやいややるものを、そう感じさせず、すべての聴衆に、“ああよいものを聴いた”と思わせるマジック…
それが、今回の僕の「アヴェマリア」になるだろう。
ピアソラ本人だって、バッハの名アリアといっしょにプレイされることは、恐れ多くて望まないはずだ。
ピアソラは、そのような愚かなミュージシャンではなかったはず。
ピアソラは、素晴らしいバンドネオンプレイヤーであったことは疑う余地もない。こういった彼の「もどき」作品が、このように分不相応な蔓延をしたのは、ピアソラ本人が悪いのではない。すべて愚かな音楽業界による、故人の意志を無視した、無礼極まるおこないによるものだ。
僕は、ブエノスアイレスをはじめて歩いたとき、街角という街角から彼のバンドネオンの音が聞こえてきたような気がしたことを、いまでもよく覚えている。
ピアソラが、誰よりもブエノスアイレスを愛した、不世出のバンドネオンプレイヤーだったことは言うまでもない。
単に冗談まじりで作ったものが、本人の意志とは関係なく世に残ってしまって歌。
僕のアレンジは、そのあたりをリスペクトするものになるだろう。
もしピアソラが、自分を「現代のバッハ」と勘違いしてこの曲を作ったとしたら、彼はただの思い上がった愚か者以外のなにものでもない。
「アヴェマリア」は単なる「戯れ」であり、彼は決してそんな人間ではなかったと信じている。
それにしても、これほどアレンジがやりづらく、身が入らなかった音楽も他に類をみない…
今日自分は、おそらく初めてだろう。人が作ったものをかなり手厳しく酷評したが、それはアストル・ピアソラというミュージシャンが、「アヴェマリア」のような音楽で評価される、単なる「マネごと」Bクラスの程度の低いクリエイターではないからだ。
彼の本来の音楽は、あくまでもブエノスアイレスの街角に属するもので、それは全く他のプレイヤーの追従を許さない至高の調べであるということを、最後にもう一度つけ加える。
僕が今日批判したのは、ピアソラ本人ではなく、彼の意志を尊重せずにこのような歌を蔓延させてしまった、腐った音楽業界と、それに乗じた一部の愚かな器楽奏者たちだと考えていただければ嬉しい。
それにしても、やはりバッハは素晴らしい。
ただ、そこに尽きる🫵