「Knight’s NY diaries」カテゴリーアーカイブ

ニューヨーク日記

Last Samurai・高祖父を偲ぶ旅

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来年1月26日の東京公演翌日、とてもやりがいのある仕事の打ち合わせのため、僕は、山形県の高畠という土地を訪れます。

これに際し、このプロジェクトのセットアップをしてくださった、当日東京から同行してくださる応援者の方のご厚意により少々寄り道、僕の先祖所縁の、壮麗極まる会津若松城を初めて訪れる運びとなりました。

僕の高祖父(ひいひいおじいさん)は会津藩士でした。

幕末、年齢が少し上だったせいなのか、決死隊には入れず江戸に落ち延び、そこで彰義隊士となって最後まで戊辰戦争を戦った「ラストサムライ」でした。

眉目秀麗の美男子で、生来女性に好かれる❤️資質を備えていた高祖父は、いよいよ自決かという間際に逃げ込んだ国学者の屋敷の娘(僕のひいひいおばあさん)にゾッコン気に入られ、めでたくお輿入れとあいなったそうな。
そのときその家に行かなければ、いま僕はこの世にいなかったわけです。

僕が古きものに固執し、きわめてアナーキーな人間になったのは、この高祖父のDNAによるものでしょう。今でも僕は「尊王」ではなく「佐幕」的。

1月末の鶴ヶ城は、もしかしたら写真のような白銀の姿を見せてくれるかもしれません。

僕の髪はいま伸びて、浪士のような「惣髪(そうはつ)」ですが、いまの僕を高祖父が見たら、“貴様如きわしの足元にも及ばぬわ”と笑い飛ばすでしょう。

Happy Halloween 🎃👻🧟❣️

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今年、初めてハロウィン当日のニューヨークの通りに出てみたが、🎃バケツを手にした子供たちが店に入ると、店の中でちゃんと(ときに仮装した)担当の女性たちがお菓子を持って待っていて、それがすごく良かった。

ハロウィンは、かつてケルト教の大晦日(10/31)の日に、日本のお盆にあたるような、先祖の霊を迎える習慣があり、のちにキリスト教が、それを万聖節(11/1)の1日前のイベントとして取り込んだのが起源と言われている。

死者の装束をまとったこどもたちが、祖先の霊を運んでくるかのように家々のドアをたたいて訪れて回ると、なかのものたちは、それをあたたかく迎え、用意した「ソウルケーキ」と呼ばれたお菓子でもてなした。この習慣を「ソウリング」と呼び、これが現在のハロウィンのもとになっている。
このソウリングを幻想的に歌にした「A soalin’」という、ピーター・ポール&マリー(メアリー)」の傑作曲があり、僕は中学生のとき、このナンバーの印象的なギターフレーズをレコードから耳コピーし、いつも弾いていた。

というわけで、ハロウィンは単なる仮装どんちゃんパーティーではない。遥かケルトの時代に起源を持つ(イギリスの伝統を正統的に受け継ぐ)アメリカの「よき文化」であることを、この日あらためて知らされたような気がした。

僕はつねに、アメリカから学ぶ。

Bach que une a Atahualpa Yupanqui e yo アタウアルパ・ユパンキと僕を結ぶバッハ

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1989年1月、アルゼンチンのコルドバ州のユパンキの別荘を訪れた僕に、南米の大巨匠は、何かクラシックギターの曲を弾いてみるよう促した。
そこで僕は、唯一覚えていたバッハの「ブーレ」をプレイした。
これは、そのとき僕がプレイしたものと全く同じバージョン。スペイン語の前置きのあと、僕が実際プレイしている動画が始まる。

このナンバーは、古典対位法によって書かれた高低音の2つのパッセージを、まるで生きもののように動き回りながら、終始一貫して同じリズムを打楽器のようにたたき続ける左手の動きが最大の面白さ。しかしその動きはきわめてナチュラルで、全く無理がない。これはもともと古楽器リュートのために書かれた音楽だが、最もギターでプレイしやすいホ短調がオリジナルキー。したがって変調の必要がなく、ほぼオリジナルどおりの音でプレイされる。
僕には、超人バッハが、あたかも近い将来、ギターという優れた楽器が、必ずや世の中に現れることを予期していたような気がしてならない。

ビデオは、その左手フィンガリングをズームして作ってある。

蛇足だが、ギターというのは、左手指が弦とフレットを同時にヒットする際と、右手指が弦をヒットする際に出る、(楽譜に存在しない)打楽器のような音が実際の五線上のメロディーとあいまって魅力的なサウンドになる。
今、このサウンドが出せるギターのプレイヤーは、どんなカテゴリーにおいても殆ど存在しない。
そんな現実が、ギターという楽器のポピュラリティーを失わせ、いま地球上でも最も売れないもののひとつにさせてしまったということを忘れてはならない。

ギターに大切なのはテクニックではない。あらゆる人間の感情を含有し、そして聴くものの心を打つ「音」だ。

当時僕は、ギターのプレイヤーなどになる気は全くなかったが、アルバイトでハードロックバンドの一員としてギターを弾いていた。バッハをプレイするのが、80年代のロッカーたちの間でトレンドであったこの時代、「定音弦をミュートして全編トーンを抑えてプレイ」したラスト、あたかもエレクトリックギターのヴォリュームをフルにあげてブルースコードで締めくくるというような「ロッキンバッハ」に目を丸くしたユパンキは、ビックリして大喝采を贈ってくれ、さらに心を開いてくれた。

そしてこのあと僕は、巨匠のギターの音色を目の当たりにして、真剣にギターの道を歩むことになる。

ただし、今ユパンキの前でバッハを弾いてみろと言われたら、およそこのようなマネはできないだろう。若く、恐れを知らないということは、何にも替え難い。ユパンキがバッハを何よりも愛していたことを知ったのは、ずっとあとになってからだった。

「ブーレ」はもともとフランスの農民舞曲。ヨーロッパのさまざまなフォークダンスに芸術的生命を与えたバッハと、数世紀のちに南米で同じことを行ったユパンキには多くの共通点があるが、多くの人はそういうことを理解できない。
「バッハは世界を結ぶフォルクローレ」。これは20世紀を代表するブラジルの作曲家、エイトル・ヴィラ=ロボスの言葉だ。
僕からバッハを取ったら、それはユパンキを失うのと同じことになる。
ロックもまた、アメリカで生まれた「世界最高のフォルクローレ」と言えるだろう🎸

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En enero de 1989 en Cerro Colorado, Argentina, Atahualpa Yupanqui me pidió que tocara ‘música de guitarra clásica’. ‘Bourrée’ de Bach, es la exactamente misma versión que le toqué al gran maestro.
En ese momento no tenía ninguna intención de ser guitarrista, pero es que estaba trabajando como miembro de una banda de hard rock en mi trabajo de ‘part time’.
Tocar Bach era una especie de tendencia entre los guitarristas de hard rock de los 80, así que siempre tocaba este ‘Bouree’ todas las noches. Esta experiencia abrió el corazón de Atahualpa, y él me dio una gran mano después de que toqué esta pieza, y luego me mostró su ‘tono mágico’ que perseguiría para mi vida. Seguro que don ata fue sorprendido mucho de la manera ‘muy rock’ de mi interpretación🎸

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Nel gennaio 1989 a Cerro Colorado, Argentina, Atahualpa Yupanqui mi chiese di suonare “musica per chitarra classica”. La “Bourrée” di Bach è esattamente la stessa versione che ho suonato per il grande maestro.
A quel tempo non avevo intenzione di diventare un chitarrista, ma lavoravo ‘part-time’ come membro di un gruppo hard rock. Suonare Bach era una specie di tendenza tra i chitarristi hard rock degli anni ’80, quindi suonavo sempre questa “Bouree” ogni sera. Questa esperienza ha aperto il cuore di Atahualpa, e lui mi ha dato una grande mano dopo aver suonato questo pezzo, e poi mi ha mostrato il suo “tono magico” che avrei perseguito per tutta la vita. Sono sicuro che Don Ata sia rimasto molto sorpreso dal modo ‘molto rock’ della mia interpretazione🎸

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En janvier 1989 à Cerro Colorado, en Argentine, Atahualpa Yupanqui m’a demandé de jouer de la « musique de guitare classique ». La « Bourrée » de Bach est exactement la même version que celle que j’ai jouée pour le grand maître.
A cette époque, je n’avais pas l’intention de devenir guitariste, mais je travaillais à ‘part-time’ en tant que membre d’un groupe de hard rock. Jouer du Bach était une sorte de tendance parmi les guitaristes de hard rock des années 80, donc je jouais toujours ce “Bourée” tous les soirs. Cette expérience a ouvert le cœur d’Atahualpa, et il m’a donné un ‘big hand’ de main après avoir joué ce morceau, puis m’a montré son « ton magique » que je poursuivrais tout au long de ma vie. Je suis sûr que Don Ata a été très surpris par la manière ‘très rock’ de mon interprétation🎸

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In January 1989 in Cerro Colorado, Argentina, Atahualpa Yupanqui asked me to play “some classical guitar music”. Then I played Bach’s “Bourrée, and this is exactly the same version that I played for the gran maestro.
At that time I had no intention of becoming a guitarist, but I was working as a member of a hard rock band for my part time job.
Playing Bach was kind of a trend among ’80s hard rock guitarists, so I always played this “Bouree” every night. This experience opened Atahualpa’s heart, and as results he gave me a ‘big hand’after playing this great piece, and then showed me his “magic tone” that I would pursue throughout my life. I’m sure Don Ata was very surprised by the ‘very rock’ way of my interpretation🎸