アタウアルパ・ユパンキの素晴らしき詩の世界 VIII
今春、広島市において、アタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)の生誕100年を記念するスペシャル・コンサートを現在計画中です。
ユパンキは生前、広島を心から愛し、一遍の詩を書き残しました。
そしてその詩に出会ったおかげで、私は音楽家として光のあたるところに出ることができたのです。
1992年11月12日、実際に広島とはなんの縁もゆかりもない私のためにかの地のみなさんが開いてくださったコンサートは、それは本当に素晴らしく、華々しいものでした。
原爆ドームをバックにした、息を呑むような美しいユパンキの写真(上)は、その際のコンサート・プログラムの表紙です。
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しかし、その後私はこの詩についていろいろな考えをめぐらせるようになりました。
もし私が92年以降、日本に戻ってしまい、ずっと私の生まれ育った東京あたりに住んで音楽活動を行っていたのなら、もしかしたらこんなことは考えなかったのかもしれません。
結局その後も、さまざまな宗教と考え方をもつ人種がいりまじってぶつかりあうニューヨークに暮すことを決意した私は、いろいろと悩んだ末、ユパンキが書き残した詩、’ヒロシマ-忘れえぬ町’を、90年代の終わりにレパートリーから完全にはずしてしまうのです。
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1992年2月、アルゼンチン、コルドバ州リオ・セコにて。
中央は、ユパンキの長男であるロベルト’コージャ’・チャベーロ氏です。
彼は、偉大なる彼の父親が広島のために書いた詩に私が作曲したナンバー、’ヒロシマ-忘れえぬ町’を、共作としてきちんとオーソライズできるよう、多大なる努力をしてくださいました。
このときフランスで、すでに病気でかなり弱っていたユパンキにかわり、コージャさんは私の演奏をその澄んだ目を輝かせながら聴いたあと、”いい歌だ。父も喜ぶでしょう”と言って、あらかじめ用意してあった、この歌を認める公式の文書を私にくださったのです。
(彼からは前もって、’ヒロシマ-忘れえぬ町’の楽譜と、演奏を録音したものを送るように指示されていました。いまならすべてインターネットを使って一瞬でできますが、当時はすべて郵送でしたので、郵便物はニューヨーク-アルゼンチン-フランスと飛び回り、今思えばずいぶん時間がかかりました。)
写真のコージャさんは、ユパンキにとてもよく似ています。
アタウアルパ・ユパンキはこのすぐあと、5月にフランスのニームにおいてこの世を去りました。
コージャさんは、その4年後、大音楽祭’コスキン’に出演してユパンキへのオマージュを行った私に会いにわざわざ現地にいらしてくださり、彼の父親の素晴らしい肖像画に、名曲’兄弟たち’の歌詞がはいったポスターをプレゼントしてくださいました。
また、いちばん左はリオ・セコの町長さんのフランシスコ・ベンチェトリト氏。
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ベンチェトリトさんは町長さん兼開業医。
写真はリオ・セコの町役場の前ですが、彼はいつもお医者さんスタイルで走り回っておられました。
現地でコージャさんとの連絡を密にとり、この大切なサミットをセットアップしてくださった私の恩人です。
私は彼からずいぶん北部コルドバのフォルクローレの心を学びました。
彼は、私を実の息子のように大切に思ってくださり、リオ・セコ滞在中は長期にわたって自宅に滞在させ、家族同様に扱ってくださいました。
まさに私のアルゼンチンの父親のような方です。
ヌエバ・カンシオン、’ヒロシマ’の誕生を心から喜んでくださいました。
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ベンチェトリト夫人のアニータさん。
やはり私に対して、本当の息子のように接してくださいました。
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また、私の楽器を作ってくれる素晴らしいギター製作家のグレゴリオ・カブラルさんも、このリオ・セコの方です。
私にとって、もっとも大きな存在の大きな町とはもちろんニューヨークですが、もっとも大きな存在の小さな町といえるのが、このリオ・セコでしょう。
なお、リオ・セコの正式名称は、Villa de María del Rio Seco(ビジャ・デ・マリーア・デル・リオ・セコ)といい、これを直訳すると、’乾いた川のマリアの村’となります。
この土地の人々は、どちらかというと自分たちの町を’ビジャ・デ・マリーア(マリアの村)’と呼ぶことのほうが多いようです。
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リオ・セコの女性たちはたいへん魅力的。
これが’マリアの村’と呼ばれる所以かもしれません。
右の写真の白いブラウスの女性はシルヴィーナさんといって、実は私は彼女のことがとても好きでした(告白の巻…)。
この写真ではちょっとわかりづらいかもしれませんけれど、黒髪の、愛らしい美しさをもった、おっとりした人柄の素敵な女性でした。
この年私は、日本の’ラティーナ’という雑誌に、リオ・セコ生まれの大詩人であるレオポルド・ルゴーネスと、この町の素敵な人々のことを書いています。
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実はこのとき、北部コルドバは大豪雨に見舞われ、州都のコルドバ市とリオ・セコをつなぐ道にかかる橋が洪水のため決壊。
コルドバ市に2日間足止めを余儀なくされましたが、結果なんと私は、他の乗客とともに緊急対策のブルドーザーのパワーショベルにのって川を渡りました。
この打開策、いかにもアルゼンチンらしいですネ!
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リオ・セコから車で30分ほど走ると、ユパンキゆかりの山村、セロ・コロラドに着きます。
この村の人々も、当時の私にとってかけがえのない人々でした。
私はいまでも、すぐにスペイン語がこの土地のアクセントになるため、他の南米諸国で公演する際には必ず、”コルドバ訛りで失礼しますね”と言ってから演奏します。
もちろん会場はドッと湧きます。
これらすべての縁をつくってくれたのが、私にとってこれ以上の恩人はいないと言っていい、セロ・コロラド出身のフォルクロリスタ、故エドワルド・マルティネス・グワジャーネス(1956-1998)だったのです。
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リオ・セコやセロ・コロラドに暮すアルゼンチンの恩人たちの想いを、日本でしっかり受け止めてくださったのが、当時、広島市立図書館の館長さんでいらした山崎克洋さん。
トップのユパンキの写真は、山崎さんのカメラによるものです。
彼は広島を訪れたユパンキを案内なさったそうですが、ユパンキは、”おい、ヤマサキ、ヒロシマのすごい詩ができたんだぞ!”と言ったそうです。
山崎さんがもしいなければ、いまの私は存在しませんでした。
山崎さんは、一昨年出版になったヒロシマと音楽という本に、私のことを大きく書いてくださっています。
この本を、広島の方がニューヨークまで送ってくださったとき、私はユパンキの’郷愁の老木’というナンバーを思い出し、ひとり涙にむせびました。
このとき私は、”ヒロシマをまたやらなければ….。”と、強く思うようになったのです。
写真は、2006年秋、広島で久しぶりに再会した山崎克洋さんと私。
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今年がユパンキにとっての記念の年だから、”ぜひそのときのために”というつもりでこの歌を温存していたのではありません。
私にしてみれば、生誕93年であろうが100年であろうが101年であろうが、同じように心の中にいつもユパンキがいて、そしてこの歌が鳴り響いているのです。
言ってみればそれは、いまもどこかで見守ってくれていると信じているユパンキが、”おまえ、そろそろヒロシマやってみたらどうだ?”と言っている声が聞こえたような、そんな気持ちが自分のなかに渦を巻きだし、それが流れとして今回のコンサートに結びついたということでしょうか。
“こんなに素敵な人々に支えられて生まれた歌を、なんでやめてしまったのか。なんという恩知らずな男だ。”と言われてしまいそうですね。
私もこれらの写真を久しぶりに見返して、ほんとうにそう思います。
私は、ニューヨークをとおして南米を学び、そして南米をとおして日本を学びました。
1988年の8月1日、もしあの日日本を飛び出していなければ、おそらくいまのような世界観をもつことは決してできなかったでしょう。
国境と時空をこえた、いろいろな人々の思いと尽力が生み出したこの’ヒロシマ-忘れえぬ町’。
私はいま、ふたたび心を込めて演奏するつもりでいます。
ユパンキ生誕100年記念の今年は、私にとって渡米20年記念にあたります。
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ヒロシマ-忘れえぬ町
詩 アタウアルパ・ユパンキ灰のなかからよみがえる不死鳥のように
苦しみを歓びへと謳いあげる
ベートーヴェンのシンフォニーのように
そしていま 息をふきかえそうとする
伝説の英雄のように
きみは こなごなになった肉体を
ふたたび 悠久の水によって
物語のなかへ 歌のなかへ
そして希望のなかへと
よみがえらせようとしている
ああ きみは 未来を占う農夫
おおいなる夢をみる 種まきびと
ごらん きみとぼくは いま ひとつ
愛するヒロシマよ
ごらん ぼくたちは ひとつ
愛するヒロシマ
あの夜のことをおぼえているかい
ひきさかれた着物よ
さぞ あつかったことだろう
大地は やけつく太陽よりもあつく
きみをつつんだのか
すべてを おそった恐怖
子どもたちを失った町
山の松の木はたおれ
野の稲は枯れはて
空を舞う鳥は息たえ
星空のもと
物語を伝える笛の音もやみ
すべては静けさのなか
そよならの言葉もなく
涙をながすこともなく
ともに歌うこともなく 去っていった
たとえようのない恐ろしい瞬間
きみたちは静かに去っていった
ヒロシマよ
でも神は
きみの優しさをみまもっていた
きみの清らかな種を
きみの 美しく深い声を
そして いま きみはふたたびよみがえり
はじらいながら色づく桜の木を
ふたたび そめあげ
そして母親たちは 夕べに
とぎれた子守歌を
静かに歌いだした
ねんころろ ねんころろ
ねんころろ ねんころろ
ごらん きみとぼくはいまひとつ
ヒロシマ
お聴き ぼくのギターはきみを想って歌う
ヒロシマ
さよなら
いま ぼくはここを去るけれど
ぼくの魂はいつまでもきみとともにいよう
ヒロシマ