いまを遡ること14年前、1994年2月、盛夏のアルゼンチン、コルドバ州セロコロラド。
私は、そのさらに5年前の1989年1月に、かの地においてギターの手ほどきをしてくれたアタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)のお墓を訪れ、追悼演奏を行いました。
ユパンキとのセロコロラドでの出会い同様、このトピックも、これまでウェッブサイト上でご紹介をしていなかった当時の記録です。
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その後の私の活動の基盤になるものが、すべてここで生まれたといっても過言ではない、いまもセロコロラドの美しい自然のなかに静かに佇むユパンキのサマーハウス。
現在は、記念館として巨匠の私物や写真、表彰状、そして各国における公演ポスター、プログラムなどが飾られています。
どんなにゆっくり見て回っても10分もあればじゅうぶんなくらい、記念館としては決して大きな規模のものではありませんが、外から差し込むやわらかな日差しが実に心地よい、こんなに中にいて気持ちの良いミュージアムもそう多くはないことでしょう。
この前の年、1993年に、ニッポン放送のディレクター、香高英明さんが作ってくださった私のCD、’風が歌う地 ユパンキに捧ぐ’が、ユパンキの貴重な資料のなかにまじって、私からユパンキへの感謝の辞とともに保存されました。
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(左)現地で待っていてくれたのは、ユパンキのただひとりの息子さんであるロベルト(コージャ)・チャベーロさん。
ユパンキも比較的大きな人でしたが、コージャさんは、6フィート(約183センチ)の堂々とした体格。
私はこのあと、コージャさんのために記念館内で、彼の偉大なる父親の残した作品のなかから、’ギジェルマおばさんに捧げる歌’、’よそ者のサンバ’、’悲しいわだち’、’こおろぎのサンバ’を演奏しました。
お気づきでしょう?
この頃から、演奏家として本格的にいろいろな場所での演奏機会がふえていた私は、すっかり運動不足となり、いまよりかなり体重を増やしてしまっていたのです。
(右)反省した私は、このあと韓国の伝統武芸である’テコンドー’のニューヨーク道場に通いだし(私は高校生時代、松涛館流空手を約2年間学んだベースがありました)体重を10キロ下げ、余分な脂肪をすべて筋肉に変えました。
ところが腕があがるにつれ、組手稽古などで大切な右指の爪を割るようになったため、2000年以降は、右手をグローブで保護でき、フィジカルなダイレクトコンタクトの少ないフェンシングに転向。
精神にも肉体にも無駄なものがつかないよう、現在もトレーニングを続けています。
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(左)セロコロラドから車で30分。
コルドバ州とサンティアゴ・デル・エステーロ州の国境に近い町、ビジャ・デ・マリーア・デル・リオ・セコでは、かの地のギター製作家、グレゴリオ・カブラルさんによる新しいギターが完成していました。
(右)出演の決まっていたリオ・セコの大音楽祭、’カント・イ・ラ・ポエシーア’において、カブラルさんの楽器を使い、ユパンキ作品を演奏する私。
90年代初頭の武者修行時代に、南米音楽の多くを学んだこの音楽祭。
セロコロラドからも、多くの人たちが聴きに来てくれました。
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この翌年、1995年8月、原爆投下から50年を記念する大イヴェント、’平和ウイーク’が、ブエノスアイレスの日系人の皆さんたちによって開催され、私はこの意義のある催しに、ニューヨークからご招待を受けました。
彼らの心のふるさとである、パレルモの美しい日本庭園において行われたセレモニーにおいて、私は’ヒロシマ 忘れえぬ町’を演奏。
演奏のあと、日系人の皆さんの手から放たれ、南米の青空へと舞い上がった数多くの美しい風船のイメージは、私がこれまで南米の地において受けた、身震いのするような激しい、もっとも感動的な体験のひとつとして、いまも脳裏からはなれません。
こういった素晴らしい経験も、すべてユパンキが私に運んできてくれた、ほかのなににもかえることのできない素晴らしい贈り物なのです。
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そしてさらにこの翌年、1996年1月、私はアルゼンチン最大の音楽祭、’コスキン’に招待され、コージャさんはじめ、多くの皆さんの見守るなか、ユパンキ作品を披露しました。
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No se de ande vengo y pa’ ande voy.
(どこからきてどこへ行くのか 俺にはわからない - アタウアルパ・ユパンキ)
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ユパンキの言葉のように、私自身もひとりの音楽家として、いったいこれから自分がなにをしながら、そしてどこへむかってゆくのかなど、正直なところ見当がつきません。
しかし、なにが先に待っているかわからないから、ゆえに人生は楽しいのです。
1988年、ニューヨークに単身乗り込んだ私を待っていてくれたのが、それまで一度も意識すらしたことのない、この遠い素晴らしい国との縁でした。
まったく別なことをするためににここへやってきた私に対し、”おまえはギターを弾け”とばかりに、無限の芸術の道へと導いてくれたユパンキ。
私は今でも、いろいろな国や土地でコンサートをしている最中に、ふと、”俺、なんでこんなことしてるんだろう?”などと思っておかしくなることが時々あります。
私もまだまだ、’完成’などという言葉には程遠い、つねに試行錯誤を繰り返す身。
これからも、おそらくいろいろなことをしては、壁にぶつかってゆくことでしょう。
しかし、今後なにがあっても、この身からはなれていかない唯一つの武器。
それが、私にとってユパンキの音楽なのだと思っています。
1994年2月、’エル・アリエーロ(牛追い)’として歩みだしたこの瞬間、この場所に(たとえ物理的にからだは遠くはなれていても)、常に私の心は戻ります。
そして少し前進することができるとまた戻り、さらにまた前進する、その繰り返しが、私の音楽家としての歩みなのだということを皆様にご理解いただければ、こんなに嬉しいことはありません。
¡Seguiré tu camino, te juro, Don Ata!