Recuerdo del Don Maestro – ユパンキの思い出 –

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いまから20年前の1988年8月1日、ニューヨークへ単身乗り込んできた私を待っていたのは、私のこれまでの人生においても、もっとも不思議なできごといえる、南米フォルクローレの最高峰、巨匠アタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)との出会いでした。
(写真) 1989年1月、81回めの誕生日を目前にした、80歳のアタウアルパ・ユパンキと、26歳の私。
アルゼンチン、コルドバ州セロコロラドの、ユパンキのサマーハウス玄関口にて。


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“シロ、きみのギターはユパンキと同じ音だ。ぜひアルゼンチンに行って彼に会うといいよ。”と、自身の生まれ故郷でもあり、ユパンキがアルゼンチンのなかでもいちばん愛したといわれる山村、セロコロラドへの旅をセットアップしてくれた、故エドワルド・マルティネス・グワジャーネス。
私はまるで、不思議な力に導かれるように、1989年1月15日、ひとりアルゼンチンに向かったのです。
セロコロラドのサマーハウスで私を待っていてくれたユパンキ。
しかし実際のところ彼には、私に対して両手をひろげて”やあ、ようこそいらっしゃい!”という雰囲気はまったくありませんでした。
実の息子のようなエドワルドに、”あなたと同じ音色でギターを弾く青年がいるからぜひ会ってみてください。”と言われ 、どんなやつかと期待していたところに現われたのは、どう見ても15歳くらいにしか見えない曾孫のような子ども。
(私は当時、どうまちがっても17歳より上に見られることはありませんでした...。)
ユパンキはきっと、唖然としてしまっていたのかもしれません。
私のほうにしても、いくら招待を受けているとはいえ、インターネットもセルラーフォンもない時代、ニューヨークから誰の手も借りずに、一握りのドル札のみ携えて、見ず知らずの、決して便利がいいとはいえない南米の国の、トラックの荷台に乗らなければ最終的にたどり着くことのできない人口150人の山村に旅をするということは、あたかも若く向こう見ずな剣の使い手が、遥か遠国の大剣豪の山塞に、腕試しのために単身乗り込むような、そんな雰囲気さえ漂うものだったのです。
ぱっと見たユパンキは、まるで南米先住民族の酋長のようでしたが、よくみると肌の色が白く、その瞳は澄んだブルーで、そこへきて手足が長く、さらにその手はヤツデのように大きく、なんだか少々人間ばなれのした石仏のような印象を受けました。
彼は、その鋭い視線で私をジロリと見ると、”おい、チャンギート(小僧っ子)、なんか弾いてみろ。”と、言ったのです。
それに対して私はまず、’栗毛の馬’、’インディオの道’、’牛車にゆられて’を演奏しました。
ユパンキはそれを無表情のまま聴いていて、一曲終わるととりあえずパン、パン、パンという気の抜けたような拍手をしてくれましたが、それが示すように、まったく感心しているような様子ではありません。
(当時の私のこれらのインタープレテーションは、言うまでもなく現在私が演奏する感じとはかなりちがっていたと思います)
おまけに、’牛車にゆられて’の歌詞のまちがい(実際まちがいではなく、当時私は、”デマシアード・ラールゴス・カミーノス・シン・ナーダ・ケ・メ・エントレテンガ...-あまりに長く続く道も 俺にはなにも与えはしない-“というロミルド・リッソの原詩に対し、”アンダール・イ・アンダール・ロス・カミーノス...-歩いても歩いても 道はなにも俺には与えない-“という風に変えたエドワルド版ヴァージョンで歌っていた)に気づくと、”お前、歌詞がちがうぞ。それ誰に習った?”と不機嫌そうです。
それに対して、”エドワルド・マルティネス・グワジャーネス...。”と答えると、なんだそれならしかたねえなというような表情で、”そうか。”とユパンキはニヤリとしました。
ユパンキの態度に変化がおきたのはそのあとでした。
“お前、なにかクラシック曲を弾けないのか?”と問うユパンキに対して、私は当時おぼえていたクラシックのレパートリーのなかから、とても好きでふだんよく弾いていた、J.S.バッハ作曲による、リュート組曲第一番BWV996の’ブーレを弾きました。
‘ブーレ’は終始一貫した速いテンポ。
ギターの高音部と低音部の独立したふたつの旋律が、完璧な古典対位法の作曲テクニックによって、自由自在に動き回ることでひとつの音楽となった高度な芸術作品ですが、私はこのとき(これももしかしたらなにかの力が働いていたのかもしれません)、大巨匠の前で、この難しいナンバーをほぼ完璧に弾ききることができたのです。
(しかし私も恐れを知らない若虎でした。きっといまだったら、ユパンキのまえでバッハを弾くことなどとてもできないでしょう。)
するとユパンキは、突然いままでと態度を一変。
身を乗り出すようにそれを聴き、演奏が終わると、”でかしたぞ、小僧っ子!”とでも言わんばかりに、パパパパパパパと、スピードののった、血のかよった拍手を送ってくれました。
彼はこのときはじめて、きちんとバッハを弾きこなしたうえで自分の音楽に挑戦しようとしている若者を評価したにちがいありません。
ユパンキは、自身なによりも愛したバッハの調べによって、ついに心をひらいてくれたのでした。
私は、彼がバッハをこよなく愛していたことをずっとあとになってから知りました。

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バッハのおかげですっかりムードをかえたユパンキは私に、”お前はクラシックギターをちゃんと習ってるな。誰に習った?”と聞くので、”イワオ・スズキ”と答えると、彼は、”イワオ...スズキ...”などとつぶやきながら、そいつはなかなかのやつだなという表情をしました。
私はそのとき、そのことをとても嬉しく思ったものです。
鈴木巌先生とユパンキは、かつて’中南米音楽(現ラティーナ)’誌のセットアップで、誌面対談をしています。

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そのあと、”俺のギター曲を弾けるか?”というので弾いたのが’恋する鳩の踊り’でした。
ユパンキはそれを非常に注意深く聴いていましたが、まるで鳩がもの哀しげに歌うかのような中間部のグリッサンドのパートにさしかかったとき、彼は急に、”おい、ちょっと待て!”と言うと自身のギターを手に取り、”お前は今、ここのところを早く弾いたが、そうじゃない。もっとゆっくり弾くんだ。”と言って、実際に音を出してくれたのです。
それはまさに、少年時代に、レコードをとおして身震いをするような感動をプレゼントしてくれたあの素晴らしい音色でした。
その音色は、家の外から聞こえてくるセロコロラドの鳥たちの歌声、川のせせらぎ、そして木々の葉をゆらす風の調べに融けこんで(少々月並みな表現ではあるかもしれませんが)、私の身体のなかすべてを浄化したような、そんな瞬間でした。
そしてその瞬間から、巨匠の指先から放たれた音を追求する果てしない旅が、私の中ではじまったのです。
それからユパンキは、最初に会ったときとは一転して雰囲気をかえ、ていねいにギターを教えてくれました。
それは、いままで私が知っていたギターの奏法を根本からくつがえすようなもので、まさに驚くべき魔法のようなものだったのです。
写真は、少々疲れたのか、”ちょっと外に出ようか。”と言って、サマーハウスを出たところを、彼の長男であるロベルト(コージャ)さんが撮ってくれたスナップです。
ユパンキ生誕100年にあたる今年、私は’恋する鳩の踊り’を、はじめてCDに録音しました。
あの、セロコロラドでおきた素晴らしい瞬間から19年の歳月が流れ、私はようやく、巨匠のギターの音色に少しだけ近づくことができたような気がしています。
1989年1月、ユパンキ、彼の奥様、そして長男のコージャさんたちとともに過ごしたセロコロラドでの時間。
それはいまも私の脳裏で、まるで昨日のことにように鮮明に光を放っているのです。

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ニューヨークの自宅にあるユパンキギター。
ユパンキは、’シロへ’、そして’アタウアルパ’をスペイン語で書くと、’ユパンキ’をなんとカタカナで書き入れてくれました。
もうかなり古びてしまってはいますが、1960年代に、大陸の職人が心を込めて作ったこの楽器。
いまでもきれいな声で歌ってくれます。
私の二枚目のCD、’コンドルビウエラ(邦題-コンドルは飛んでゆく)’は、オープニングナンバーの’カルチャキ族のビダーラ’および、タイトルトラックの’コンドルは飛んでゆく’以外、すべてこのギターで録音したもので、本サイト、トップページで聴ける’ペペのサンバ’も、実は彼女の歌声なのです。