ユパンキのお告げ、そして山崎克洋さん追悼
カーネギーホール公演を約二週間後にひかえ、主催者から、当日の会場入りやドレスリハーサルなどのタイムスケジュールの連絡も受け、あとは体調に留意をしながら、現在この責任重大なパフォーマンスを成功できるよう準備をしている私ですが、そんな私の前に一週間ほど前、ユパンキがひょっこり夢に現われ、これまた実に不思議なことを言ったのです。
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夢の中でユパンキは私をじろっと見ると、”お前、今度カーネギーホールで「栗毛の馬」をやるんだってな。”とまず聞きました。
キョトンとする私に対してユパンキは、”お前の「栗毛の馬」はちょっと悲しすぎる。もっとにこやかにやれ。”と言うのです。
さらにユパンキはこう続けます。
“俺はいつもマイク一本で歌ってたからな。あれがいま思うとなんだか悲しげにみえたような気がしてならないんだ。俺もお前みたいに、マイク二本でやればよかったかな。”と...。
こう彼が言ったところで目がさめ、私はなんともいえない気分となりました。
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ユパンキの二枚の写真は、1966年4月、彼が広島を訪れ公演した際のスナップです。
トップ写真のように、ユパンキはヴォーカルとギターを常に一本のマイクで拾っていました。
この貴重な写真を撮影なさったのは、かつて広島アルゼンチン音楽愛好会の代表をつとめておられた山崎克洋さん。
17年前、私を音楽家として世に出すきっかけを作ってくださった最大の恩人です。
広島アルゼンチン音楽愛好会の皆さんに見送られ、広島を去ってゆくユパンキ。
ユパンキのすぐ隣に立っているジェントルマンが山崎克洋さんです。
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しかし、アルゼンチン音楽をなによりも愛した’タンギート(タンゴ野郎)’山崎さんも、昨年、ユパンキ生誕100年の年に、私にひとこと、”シロちゃん、いよいよこれからが楽しみじゃね。”とおっしゃってこの世を去ってしまいました。
いまごろきっと天国でユパンキと、”あのときは楽しかったな。”と話に花を咲かせておられることでしょう。
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「ヒロシマ~忘れえぬ町」に作曲した、1991年当時の私。
当時私は、平日はニューヨークのレストランでウエイターとして働き、週末は、ラテンアメリカ系の人々が多く暮す地域にあるレストランやバーなどで演奏していました。
この頃の私といえば、ギターを弾いているかバイクにまたがっているかのどちらかで、およそ音楽家という雰囲気はありません。
音楽をこよなく愛した山崎克洋さんは、こんな風来坊の私にその将来性を見出し、1992年秋、素晴らしいプレゼンテーションを用意して広島に招待してくださったのです。
それは決して多くの人が簡単にできることではありませんでした。
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もし山崎さんとの出会いがなければ、私は音楽家として生きのびてくることは決してできなかったでしょう。
ユパンキ、そして山崎さん。
今回のカーネギーのパフォーマンスでは、私はこの「栗毛の馬」を、マイクは使わない生音で、天国にいる恩人たちのために、’にこやかに’演奏するつもりです。
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In Memory of Katsuhiro Yamasaki (1935-2008)