はじめてニューヨークにやってきた1988年夏以来、待ちに待ち続けた不朽の傑作ミュージカル、”ウエストサイド物語”のブロードウエイ・リヴァイヴァル。
寒さも少々やわらいできた3月5日の夜。
この日私は、あたかもシャーク団のリーダー、”ベルナルド”。
肩で風を切りながら、ブロードウエイのパレス劇場に向かっていました。
そして...
“イーストサイド”生まれのベルナルドは観劇中、アメリカへはじめてやってきた頃のことを思い出し、隣にいる母とワイフに気がつかれないよう5回ほど涙を流しました。
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“俺は誰よりもクールな”ベルナルド”を演じられる。だからあんたたちは、俺を”ベルナルド”にして’ウエストサイド’を再演してくれ。それからもうひとつ、その際は’アメリカ’をシャークスの男たちが加わる映画版ヴァージョンでやるべきだ。”
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“いったいなにごとだ?”と思われるでしょう。
私のことをよく知っていらっしゃる皆様のなかには、もうこのストーリーをご存知の方も多いと思いますが、私はそもそも、ニューヨークにギターを弾きに来たのでもなければユパンキと知り合うために来たのでもありません。
ダンスと”ウエストサイド物語”がすべてだった当時の私は、ただ、「ニューヨークのステージで”ベルナルド”を演じたい。」という気持ちから、”たのむから俺を使ってウエストサイドをやってくれ”と、ブロードウエイのプロデューサーたちに、そしてあわよくば、ジョージ・チャキリスを見出した故ジェローム・ロビンスに言うために、いまから約20年前にニューヨークにやってきたのです。
もちろんコネクションがあったわけではありません。
なんと無謀というか、考えなしというか、いまとなってはまったく自分でもあきれるほどですが、そのときの私にしてみれば冗談どころか大真面目。
新天地に夢を求めてこの町にやってきたという点では、1950年代当時のウエストサイドのプエルト・リカンたちといっしょでした。
私はまさに、向こう見ずの度胸だけは”シャーク団を率いるリーダー”なみ。
人一倍、いや人三倍、五倍だったようです。
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ニューヨークに到着した翌日から、私は毎日のようにブロードウェイ・ダンスセンターに通いました。
名前は忘れてしまいましたが、”こいつはすごい!”と思えるアフリカンアメリカンのジャズのインストラクターのクラスがお気に入りで、一日何度も彼のクラスに出ました。
いっぺんに50人以上ものダンサーが踊るグループレッスンはエキサイティング。
最初は、とにかくこちらのダンサーたちが振りをおぼえるのが早いのに圧倒されましたが、次第に慣れてリズムをつかんできたある日のこと、
“おい、お前!”と、インストラクター氏。
“俺...ですか?”と、後の方で踊っていた私がきょとんとしていると、
“そうだ、お前だ。こっちへ来て踊ってみろ!”
私は最前列に引っぱり出され、いまおぼえたばかりの振りをひとりで踊らされました。
すると...
気がつくと他のダンサーたちは、みなフロアに座って見ており、私が踊り終わると”YEAH!!!”と拍手喝采してくれました。
それは、私がはじめて”俺はニューヨークにいるんだ!”と実感した瞬間でした。
そして、私は今でもそのときの3分ほどの振りをはっきりとおぼえています。
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この一件ですっかり自信をつけた私は、そのあとオーディションにチャレンジし、キャバレーやナイトクラブ、そしてホテルのショーに出演したりしました。
踊りの技術は、確かに日本にいたときよりもインプルーヴしたように思えましたが、周りを見ると、10歳若い連中がいっしょに汗を流しています。
ダンサーは、やはり若さが命です。それなのに”ウエストサイド物語”はいっこうに再演される兆しもありません。
“俺はベルナルドをやりたいんだ...。”
他のミュージカルやダンスになどはまったく興味のない私は、少々焦り、そして苛立っていました。
また、こんなこともありました。
クラブでちょっとした踊りのパフォーマンスを見せるオーディションに受かったのですが、演出上、右耳にピアスの穴をあけるのが条件ということを知り、私は”ベルナルドはそのようなことはしない!”とばかりに辞退してしまいました。
“お前はバカか?そんなことでせっかくの仕事をことわるのは世界中でお前だけだ。”
と、当時の仲間からはさんざん非難されたものです。
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ちょうどそんなときでした。
私は、やがて私自身の運命を180度変えることになる、コルドバ州セロ・コロラド出身のアルゼンチン青年、故エドワルド・マルティネス・グワジャーネスに会ったのです。
まさかこのあと、自分がアルゼンチンに行く運命が待ち受けているなどとは夢にも思わずに...。
彼はまさに、そのとき天が贈ってくれた、私がニューヨークでほんとうに会うべき人間でした。
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私同様、この日を楽しみにしていた、今回カーネギーホール公演に招待された母とワイフ。
“俺はニューヨークでベルナルドになる!”と言って日本を飛び出した私をにこやかに送り出してくれた母にしてみれば、なんと感無量だったことでしょう。
彼女はこのあと、劇場の売店で売られていた”ウエストサイドグッズ”を手当たり次第に買いまくり、伝説の人となりました。
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ワイフとは、音楽家として活動をはじめてからニューヨークで知り会ったので、彼女は踊りに情熱を注ぎ込んでいた頃の私を知りませんが、じつはニューヨークの我家の一室の壁は、いまも変わらずこのような有様です。
おかげで彼女も、毎日、否が応でも”ウエストサイド”と対面しなければなりません。
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ブラックのジャケットにパープルのシャツ。
“ベルナルド”スタイルで、ブロードウエイの父、ミスター・ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディーことジョージ・M.コーエン像の下に立つ私。
結局ブロードウエイで、炎のような若い青春をハイウエイ下に散らせて死んだ”ベルナルド”を演じるという夢はかないませんでしたが、そのかわりにニューヨークは、長い一生をかけて研鑽を重ね、そして追求してゆかなければならない、素晴らしい南米音楽との出会いをプレゼントしてくれました。
“ベルナルドもいいが、”ウエストサイド”だけで人生やってゆけるか?それよりお前は”サウスサイド”の俺たちの音楽をやれ。踊りで培ったリズム感も、そのうち必ず役に立つはずだ。”とばかりに、ユパンキは無謀な私を音楽の世界にひっぱってくれたような気がします。
“イーストサイド”のベルナルドは、飛び出しナイフをギターにもちかえ、これからも”ノースサイド”のニューヨークで生きてゆくことでしょう。
私は今、美しい南米の音楽をギターで演奏することを、本当に嬉しく、そしてなによりもやりがいのあることと誇りに思っています....が....
...しかし.....それでも.....やはり........
俺はウエストサイドに出たかった!!!
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“ウエストサイド”観劇記念反省会は、イーストサイドのおすし屋さんでした。