García Lorca para los 125 años de Argentina y Japón アルゼンチン日本友好125年に捧げるガルシア・ロルカ

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En 1938, Edmundo Guibourg, el gran cineasta argentino se realizó ‘Bodas de sangre,’ junto a Margarita Xirgu, la legendaria actriz catalana.

En esa época, las obras de Federico García Lorca verdaderamente habían perdido sus rumbos en su tierra natal por la culpa de la horrible incidente de su autor.

En 1945, de nuevo los artistas argentinos invitaron Margarita Xirgu, y estrenaron ‘La casa de Bernarda Alba’ en el Teatro Avenida de Buenos Aires.

Para mi, no es mucho decir; Sin Argentina, no podían sobrevivir las obras del gran poeta andaluz.

Mi nueva obra ‘Yerma’ para guitarra, danza moderna y recitación, es la que fuertemente creo que se merecía ser llamada como ‘la (nunca antes) obra conmemorativa para la amistad entre Argentina y Japón,’ con mi más respeto y amor a esta gran tierra sureña de las Américas.

Cuando visitó a Buenos Aires García Lorca, se conoció el joven Atahualpa Yupanqui, y lo regaló su autógrafo, y dijo;
Mientras haya tabernas en los caminos, todos los que caminan serán amigos.”

Esa gran histórica reunión tuvo lugar en un pequeño comedor de la avenida mayo, junto a ‘arroz con pollo’ me dijo.

Federico García Lorca ante el micrófono de Radio Stentor, Buenos Aires, 26 de marzo de 1934, y Joven Atahualpa Yupanqui.

1934年3月26日、ブエノスアイレスのラジオ局のマイクに向かうガルシア・ロルカと、憧れのスペインの大詩人に会うことがかなった、二十代のアタウアルパ・ユパンキ。
「ガルシア・ロルカに捧げるバラーダ」を、アルゼンチン日本友好125年公式記念曲として初演する「東京オペラシティ公演」は3月17日。この時からちょうど99年を数えることになる

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アルゼンチン大使館の後援を受けて行う3/17、東京オペラシティ公演で、僕は2曲の「アルゼンチン日本友好125年公式記念曲」を初演します。

そのひとつが、ギター、日本舞踊を基調としたモダンダンス、そして朗誦のための「ガルシア・ロルカに捧げるバラーダ」。

アルゼンチンとの友好記念なのに何故ロルカ?と思われるかもしれません。

1930年代末、ロルカが悍ましいフランコ独裁政権によって銃殺処刑されたあと、彼の作品は、スペインでは「危険分子的内容を含むもの」として、まさに行き場を失っていました。

そんな中、アルゼンチンの優れた映画監督、エドムンド・ギブルグが、スペインから大女優マルガリータ・シルグを招聘し、傑作戯曲「血の婚礼」をアルゼンチンで映画化しました。

さらに1945年、アルゼンチンの芸術家たちは、再びマルガリータ・シルグを招き、ロルカの遺作戯曲「ベルナルダ・アルバの家」をブエノスアイレスの劇場で初演します。

この時代、もしアルゼンチンがなければ、ロルカ作品は絶滅していたかもしれないと言っても決して過言ではありません。

ロルカも、自分たちの文化を正統的に受け継ぐ南の大地を心から愛し、ブエノスアイレスを訪れた際には、当時、首都の詩人グループに属していた若いユパンキにも会っていました。

ロルカは、この、やがて南米民俗音楽の最高峰に君臨することになる、バスクと南米インディオの血を引く若者に対し、”道に居酒屋がある限り、道ゆくものはみな友だちだよ“と言って、サインをプレゼントしたそうです。

この歴史的出会いは、ブエノスアイレスの小さな食堂で、やはりスペインからロルカとともにアルゼンチンを訪れていたスペインの大詩人、ホセ・ベルガミン、そしてブエノスアイレスの詩人たちのグループの間で、「アロス・コン・ポージョ (チキンライス -南米の最も庶民的料理-)」を食べながら行われました。

僕にとって「ガルシア・ロルカに捧げるバラーダ」は、現在あまり知られていない、20世紀前半のアルゼンチンの素晴らしい先人たちに対する最大の愛とリスペクト、そしてこの国の伝統音楽に携わることができた大きな誇りとともに初演する、これまでになかった、新しい「アルゼンチン日本の友好記念のパフォーマンス」になると信じています。