アルゼンチン風バッハ第5番 “マヤ・レクイエム“

”シャコンヌ”導入による新解釈版”ギターよ教えておくれ”

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来る2010年にむけて、現在、ニューヨークを中心に行うコンサート・プログラムを組んでいます。
そのなかにおいてハイライトのひとつとなるのが、疑うことなくバッハの最高傑作ナンバーのひとつにあげられる、無伴奏ヴァイオリン組曲第二番”のフィナーレを飾る大曲シャコンヌ”の一部を導入した、私独自の解釈によるユパンキの名作ミロンガ”ギターよ教えておくれ”。
今日は、この新しいサウンド・クロスオーヴァーについて少々お話させてください。

写真の楽譜は、私のクラシックギターの恩師、鈴木巌先生ご自身のトランスクリプション、そしてさらに先生の完全ハンドライティングによる”シャコンヌ”譜。
このままの状態で出版できそうなクオリティーの高さです。
私は、鈴木先生からいただいたこの譜面を使って、同曲の研鑽に励みました。


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俺が世に問えば 世は俺を欺くだろう
世の人々は 変わってしまうのは他人だけで
自分だけは変わらないと信じている
  夜明けに俺は 一筋の光をもとめてさまよう
  どうして夜は こんなにも長いのか
  ギターよ 教えておくれ
心あたたまる真実も いつしかむごい偽りへと姿をかえる
そして肥沃な土地でさえも いつしか不毛の地へと姿をかえる
  夜明けに俺は 一筋の光をもとめてさまよう
  どうして夜は こんなにも長いのか
  ギターよ 教えておくれ
人間たちはみな
すでに滅びさった神殿の息絶えた神々
夢のひとつさえも報われず
ただ影のみが残される 
  夜明けに俺は 一筋の光をもとめてさまよう
  どうして夜は こんなにも長いのか
  ギターよ 教えておくれ

(ギターよ教えておくれ /アタウアルパ・ユパンキ)

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J.S.バッハ

ニ短調で書かれた”ギターよ教えておくれ”が、やはりニ短調で書かれた、虚無感さえ漂うむせび泣きのギターの調べ、”シャコンヌ”の前半部と融合することを発見したのはつい最近。
中米マヤの地にその起源をもつ、三拍子による”シャコンヌ”と、一方南米パンパの伝承スタイルである四拍子「ミロンガ」によって書かれた”ギターよ教えておくれ”とでは、実際リズムが異なりますが、実はこのふたつの舞曲には、どちらも拍子のアタマに重く強いアクセントがあるという共通点があり、ためしにこのふたつのナンバーの”さわり”を続けてギターで弾いてみると、まるで同じ曲であるかのようにナチュラルに響くことに気がつきます。

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先住民たちの間で歌い踊られていた土着の民俗舞踊が、スペインのコンキスタドールたちによって本国に持ち帰られ、それがヨーロッパで大流行したものをバッハが自身のクリエイションにとりいれたのが”シャコンヌ”や”サラバンド”なら、かたや、スペインから南米アルゼンチンの地にやってきて、そこで牛を追いながら暮し始めたクリオージョ(ヨーロッパ系の南米人)たちが、やはり土着の先住民たちの舞曲に対して、自分たちの楽器であるギターを導入、そのアイデンティティーを加えて融合させたのが”ミロンガ”をはじめとするアルゼンチン・フォルクローレの起こりでした。
ビダーラやチャカレラ、サンバやバイレシート、そしてミロンガといった、上記のような歴史をもつ南米の大衆舞曲に、己の深い精神性と生命を吹き込み、それを広くグローバル・レコグニッション(世界的認識度)まで押し上げたユパンキ。
一方、数世紀前に、すでにアルマンドやクーラント、ジークやルール、ガヴォットといったヨーロッパのダンスナンバーに対して同じ試みを行い、きわめて優れた器楽曲の創作を行ったバッハ。
彼らは、時空と国境を越えて、同じクオリティーの仕事をしていたのです。
バッハとユパンキのナンバーが自然に響きあうのは、決して偶然ではありません。
”シャコンヌ”に見られるきわめて深い精神性。
私には、このはるか遠方の大陸から連れてこられた舞曲をとおして、バッハが滅び去った部族へのロマンを謳いあげた挽歌のように思えてならないのです。

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ギターのむせび泣きがはじまる
夜明けに グラスをひび割らせて
ギターがむせび泣く
とめようとしても無駄
黙らせることはできない
流れる水のように 雪にふるえる風のように
ギターは ただ泣きつづける
離れ離れになったものを想って
ギターはむせび泣く
白いつばきの花をもとめる 南の灼けつく砂地
朝を失った夕暮れ
的を失った矢
枝の上で はじめて命をうしなう鳥
ああ ギターよ!
五本の剣によって 深く傷つけられた心

(ラ・ギターラ /フェデリーコ・ガルシーア・ロルカ)

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私はもともと、”シャコンヌ”の全曲演奏のうえに、ユパンキの傑作詩集”ギターラ”におさめられた、全五編に渡る長編詩「フンケーロたちの歌」の朗読をのせて、それを”アルゼンチン風バッハ第五番”とする考えでいました。
’フンケーロ’とは、アルゼンチンの草原地帯に生息する小鳥の名で、自然と生物が美しく調和する、ユパンキならではの優れた内容の詩です。
ところが、実際あわせてみると、”シャコンヌ”のドスの利いた虚無的な調べにあまりうまく乗らず、この発想はすぐに取り止めとなり、次に浮かんだのが、ユパンキの名著である”エル・カント・デル・ビエント(風の歌)”の第三章「ノルテ(北部)へ」を朗読として読むアイディアでした。
「北部へ」は、上記のガルシーア・ロルカの傑作詩”ラ・ギターラ”の冒頭部分をもって幕をあけます。
ユパンキは、この作品をたいへん気に入っていたようで、その生誕100年を記念して昨年アルゼンチンで出版された”この長き道~メモーリアス”のなかにも、フランスのギタリスト、ペドロ・ソレールと共演した際、ソレールのギターにあわせてこの詩を朗読したという興味深いエピソードが記されています。
そして様々な試みの末、最終的に思いついたのが、ロルカの詩のみをのこしての、”ギターよ教えておくれ”とのドッキングでした。

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その青年時代、信じていた同胞に裏切られ、闇のなかへと追いやられたユパンキが、ただひとつ自身の分身ともいえるギターに対して、自身の生まれ故郷であるパンパのリズムにその想いをたくして打ち明けた”ギターよ教えておくれ”。
中米マヤの地に生まれ、やがてヨーロッパへと連れ去られ、長い年月を経てふたたび南米大陸のエモーションが濃縮されたギター音楽として新たな生命を与えられた”シャコンヌ”。
(今回の編纂では、主題から、前半部のヤマ場といえる早弾きのパート、第九変奏までを導入しました)
さらに、ギターとは、五本の剣(指)で傷つけられて号泣するものという、ロルカの詩の世界。
私はこれらの至高のアートを通して、いかにギターという楽器が”泣く”楽器であるかということを皆様にお聴かせできればと思っています。