ギタリストにとってスペインは永遠のあこがれの国です。
マドリード公演の前に、最大手ラジオの‘カデナ・セール’が、一時間の生放送番組に私を招待してくれたのは嬉しい経験でした。
“スペインは私が子どもの頃から夢みた国。ここにいて、歩いて、ここの空気を吸い込んで、そして私はいまこの国にいるのだという喜びをかみしめているのです。”と、正直な気持ちを言うと、聞き手の人もたいへん喜んでくれました。私は一時間ほぼ出ずっぱりでしたが、途中何人かの有名人ゲストも現れ、そのなかに、その週に戦う予定のスター闘牛士がいて、なんだかよくわからないままに彼と対談したのも、スペインらしい、楽しい思い出になりました。
スペインの日本語による情報紙
アランフェス宮殿にて
スペインは光と影の国です。宮殿の裏の林のなかを歩いていると、目の見えないロドリーゴがどうしてあの‘アランフェス協奏曲’を作ることができたのかわかったような気がしました。
スペインの芸術家はみな、この光から霊感を得ていたに違いありません。
この後、ここからいくらも離れていないチンチョンの町で、‘マリア・ルイサの城’との出会いがありました。
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私のCDアルバム、‘ナンブ’の冒頭におさめられた‘ホライゾン(ディエゴに捧げる)’というナンバーがありますが、これは実は、ある映画の主人公からインスピレーションを受けて作ったもので、その人物の劇中での名前がディエゴでした(ラテン系の人々にはよく、“マラドーナのことですか?”と聞かれ苦笑いすることもありますが)。
1994年に日本で公開された、キューバの名匠、トマス・グティエレス・アレア監督による‘苺とチョコレート’がそれで、ロードショー前に私はひょんなことからこの映画の下訳(字幕スーパーのもとになる、いわばシナリオおこし)を頼まれたのです。
キューバから日本に送られてきて、そのあとさらにニューヨークの私のところに届けられた一本のビデオテープは決してよい状態の画質とはいえませんでしたが、そんなことはまったく気にならない、深い詩情と力強さにあふれる美しい映画で、このアルバイト(?)を終える頃には、私はすっかり‘苺とチョコレート’と、この映画の主人公‘ディエゴ’のファンになっていました。
そんな折、今度はこのディエゴを演じた俳優が日本にキャンペーンのために同年の夏に来日することになり、たまたまそのときにツアーで日本にいる予定の私に、彼の滞在中のエスコート役の白羽の矢が立ちました。日程的にはタイトになりますが、私も彼にたいへん興味を持っていたので、私の方のコンサートの主催者にも相談し、日程を調節して、結局一週間の間、このホルヘ・ぺルゴリーアという名の若い俳優に付き添い、やはりキャンペーンで訪れた京都の記者会見ではなんと通訳まですることになりました。
ホルヘ・ぺルゴリーアと私。東京歌舞伎座にて。
京都の祇園まつりの山車の前で。一緒にいるとよく“ご兄弟ですか?”と聞かれました。
キューバ出身で、日本と聞いてすぐ思い浮かぶのは‘座頭市’だけ。慣れない環境で東洋人たちにかこまれて、はじめはホルヘもずいぶんと神経質になっていましたが、ニューヨークにいるほぼラティーノのような私とは徐々に打ち解けて、最後にはいいアミーゴになりました。
“俺達、必ずそのうちなにか一緒にやろうな”と言って、一緒に踊りに行った京都のディスコの帰り、真夜中にタクシーの後部座席で肩を組んでともに歌ったユパンキの‘牛車にゆられて’(さぞ運転手さんはおどろいたでしょう)、いまも昨日のことのようです。
私がどうしてもラジオに出なくてはならない日と、彼が離日する日がかさなってしまったとき、“きみは空港に来てくれないのか”と淋しそうでした。
その後彼はこの作品の大成功によって、あのぺドロ・アルモドバルをはじめとするスペインやラテンアメリカを代表する映画人たちに次から次へと抜擢されるようになり、いまや押しも押されぬ、キューバのみならずラテンアメリカを代表する大俳優のひとりとなりました。
私はいつかきっと、このホルヘとなにかのかたちでコラボレーションができるような気がしています。
京都の記者会見
ホルヘのことを書いた私のエッセイ‘友’ 1994年
9.24 ニューヨーク公演のポスターが出来上がりました。
デザインは山本理恵子さん。この日本語サイトをすべてに渡って管理していただいていますが、そのデザイン感覚を見込んでお願いしたところ、快く引き受けてくれました。
Millones gracias, rico-san !!!
ユパンキの詩 ‘ヒロシマ ー 忘れえぬ町’ に曲をつけたことがきっかけで行われた私の最初の広島公演の際、NHKが制作した‘メッセージひろしま’。
スタジオでのインタビューにライヴ映像をまじえた、30分にわたる本格的なものでしたが、いまこのとき録画してもらったものを見ると、公演のためにアメリカから4年ぶりに日本に帰国した私は、非常に落ち着き払った態度で用意された椅子に座り、身動きひとつせず、眉ひとつ動かさずにインタビュアーをじっと見つめて質問に答えていて、それはまるで、あたかも森の奥からでてきた若い狼のような雰囲気さえたたえています。
頼る人間もいないまったくの未知の世界で、4年の間に若い目が見た数々の事柄はストレートに心臓に達し、そしてそれが血液となって指先へと流れた結果、私はこの頃、本当に純粋な気持ちでギターを弾いていました。
このところ、演奏技術が進歩した反面、はたしていまの自分は、そのときのピュアリティーをそのまま保っていることができているのだろうかなどと時折思うことがあります。
“ギターの音色は、そのからだを抱くふたつの腕が翼となって、満天の星空の下、いくたびもいくたびも生まれかわりながら遠くへ遠くへと飛び立ってゆく”
ずっと本棚の奥にしまってあった、ユパンキのこの ‘ギター’ という美しい詩集を取り出して、最近私はこの言葉をもう一度かみしめながら、そしてこの ‘心臓に押しあてられて演奏される唯一の楽器’ との一体感を深めながらステージに向かっています。13年前の自分を思い起こしながら。
このNHKが作ってくれた番組に、いまの私がもう一度ふりかえらなくてならない、かけがえのない原点があるのです。
アメリカから4年ぶりに帰国した、1992年の私。
荒野のようなNYで、生活の大半を英語とスペイン語で暮し、つきあっていい人間と、進んでいい道のりを常に模索しながらただひたむきにギターをかき鳴らしていました。
1960年版のユパンキの詩集 ‘ギター’
学校を訪れてコンサートをするというのは大変やりがいのある仕事です。
子どもたちの感受性は湧き出でる泉の水のように清らかでそして豊かです。こちらも決して演奏に嘘があってはいけません。
思えば自分も、子どもの頃にたくさんのいい音楽を聴いたことで、いま素晴らしい道のりを歩むことができました。
いま、子供たちのためによい音楽を真摯な姿勢で弾いて聴かせてあげるということは、自分にとっての、音楽の素晴らしい大先輩たちへの恩返しになるのだと私は思っています。
成城学園にて ダブルネックギターと遊ぼう!
岩手県の宿戸(しゅくのへ)中学校の文化祭に招かれて生徒会長の立松真也(たちまつしんや)くんからの歓迎の辞
立松くんがNYに送ってくれた手紙
母校、文化学院の案内記事に私は同じ事を書きました。
(文芸春秋 2002年1月)
デイリー東北 2003年11月
アンダルシアのレモンと、イタリアの濃厚なハチミツに、アタウアルパ・ユパンキの魂が溶け合う、静寂のグロリエータ(四阿)「カンテホンド・イベロアメリカーノ」の音楽世界