「Knight’s NY diaries」カテゴリーアーカイブ

ニューヨーク日記

‘El pez más viejo en el río’ de Miguel Hernández 田園詩人ミゲル・エルナンデス

El pez más viejo en el río,
De tanta sabiduría
como amontonó, vivía
Brillantemente sombrío.
Y el agua la sonreía.

Tan sombrío llegó a estar,
Que el agua no la divierte.
Y después de meditar
tomó el camino del mar,
es decir, es de la muerte.

Reíste tu junto al río,
niño solar. Y ese día,
el pez más viejo en el río
se quitó el aire sombrío.
Y el agua te sonreía.

僕が持っている本は、スペインの田園詩人ミゲル・エルナンデス(Miguel Hernández)の詩集。

人と、あらゆる自然界の隣人たちとの魂のふれあい、そして生と死の光と影が交差するさまを、独特の感性で表現し続け、フランコ独裁政権の犠牲となって31年の生涯を終えたエルナンデスの作品は、日本の詩人大島博光(おおしまはっこう1910-2006)さんによっていくつかが翻訳されている。
長野にある博光さんの記念館に、いつか行ってみたい。

エルナンデスの詩は、ロルカ同様日本語訳が難しいが、下記は僕が訳した「川の年寄り魚」という作品。

いま改めて、愛情とともに考えなおさねければならない環境問題。

僕たちにとってかけがえのない、自然界の隣人たちの姿が、傑出した洞察力と、深い詩的手法によって描かれる。

川に暮らす年寄り魚は 物知りだった。
物知りらしく 多くの知恵を蓄えていたが
輝かしくも どこか陰鬱な姿で生きていた。
だけど川の水は いつも年寄り魚に微笑みかけていた。

でも 年寄り魚は あまりにも陰鬱になってしまい
水は 愛想を尽かしてしまう
年寄り魚は 思いに耽ったあと、
海への道、つまり死の道を歩みはじめた。

そのとき きみが 川辺で笑った
きみは 太陽の子だった…
そして あの日を最後に
川の年寄り魚は
陰鬱な空気を捨て去った。

そして水は きみに微笑んでいた。

「きみ」は、間違いなく僕たち人間を指している。

この地球上で、動物たちより責任の大きい立場にある僕たちみんなが、「太陽の子」としての認識を持って、彼らを優しく見つめなければならないということを、田園詩人は、この深い内容の詩によって説いているのだと思う。

***

11/16、六本木の「キーストーンクラブ東京」で行う公演では、エルナンデスにちなみながらも、これまでずっと目指していた日本文学との融合を試みる、いま最も気に入っている新作ギター曲をプレイします。

これは、その3日前の、11/13の東京カテドラル聖マリア大聖堂リサイタルとはガラリと雰囲気が変わるライヴ。

ぜひどちらもご予定ください。
16日公演は、近日告知を開始します。

「プラテーロとわたし」とニューヨーク

ニューヨーク湾を臨む人気レストラン「P.J. Clark’s on Hudson」にて。

手に持っているのは、僕の愛読書「プラテーロとわたし(Platero y yo / Juan Ramon Jiménez)」。

僕は少年時、イタリアの大作曲家テデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco)が、この美しい詩的散文集から受けた霊感によってクリエイトした同タイトルのギター組曲を、巨匠Segoviaのプレイで聴いて深い感銘を受けた。

すぐさま日本語に訳されている「プラテーロとわたし」を、渋谷の紀伊國屋書店にかけ込んで入手し、また、当時かなり高額だったテデスコの輸入楽譜もなんとか手に入れ、一生懸命練習した。

後年、研修生として一年在籍した劇団民藝で、やはり研修生だった女性に頼み、彼女の朗読とともに「プラテーロ」をライヴパフォーマンスしたこともある。

南スペインの田園地帯を舞台に、人とロバの心のふれあいが美しく描かれる「プラテーロとわたし」が、その後の僕の作曲、そして感性に大きな影響を与えていることは言うまでもない。

1988年、初めてニューヨークにやってきた僕は、当時、ロックフェラーセンターの地下街にあったスペイン語文学専門書店で、このオリジナル阪と出会い、すぐに購入し、今でもずっと大切にしている。偶然だが、アルゼンチンで出版された輸入書だった。

この日、僕を撮影してくれたのは、親しい書道アーティスト・院京昌子さん。

彼女はもう、何度も僕の公演のタイトル題字を手がけてくれているが、今回も、来年発表予定の新作のものをプレゼントしてくれた。

ちょっぴり“1970年代の芸術家風”いい感じの、チャーミングなニューヨークの「妹」に心から感謝❣️

「砂の器」とニューヨーク

ニューヨーク・ウエストサイドの操車場。
ここに来ると、僕の愛読書のひとつ、松本清張の「砂の器」が心に浮かぶ。

僕はよく本を読むが、ラスト数ページ、一体どうなるのかとの興奮で指が震えたという経験もそれほど多くない。新々の鬼才青年作曲家の栄光と破滅がストーリーゆえ、そのトーンは、全体を通して音楽的であり、何度読み返しても飽きが来ない。

スタニスラウ・レムの「惑星ソラリス」や、スティーブン・キングの「シャイニング」といった作品は、映画化された際、監督との間で脚色でもめ、泥沼の大げんかになったらしい。

一方、松本清張という人は、(自身の作品が)映像化される際、あまり脚色に対して細かいことを言わなかったのかもしれない。
アヴァンギャルドな電子音楽のクリエイターが、その音波を使って殺人を行う❗️というのが原作のキーとなるのだが、難解をきわめる前衛音楽は、映像では全く異なる、甘味なピアノコンチェルトとなり、映画版は大ヒットした。おそらく原作のままだったら、ハイライトとなる親子の「お遍路シーン」もなかっただろうし、ヒットしたかもわからない。
松本清張という稀有な作家は、よくそのあたりを心得ていたのだろう。

物語の重要舞台となる、出雲地方の亀嵩(かめだけ)という土地は存在し、いまも、それは小さな鉄道駅がある。
11月は日程的にとても無理だが、いつかぶらっと訪ねてみたい。

“カメダは相変わらずですか…..?”

ジーンズとイタリアは親友💚🧡❤️

昨日は、ハドソンヤードのデパートに、東京カテドラル聖マリア大聖堂公演用のドレスシャツを買いに出かけ、イタリア製の黒地のとてもいいやつを見つけた(当日ご披露いたします)。

僕はイタリアの衣服が大好き❤このサマージャケットは「プラダ」で、最高に着心地がよく、ものすごく体がしまって見える。
イタリアの質の高い衣服は、あたかも息をしていて、体に吸い付いてくるような感触を得られる。

ただし僕は、“ブランドでござい❗️”ってな着方はせず、下は常にリーヴァイス👖
僕にとって、ジーンズを凌ぐハキモノは存在しない。

実はジーンズのふるさとも、イタリアのジェノバ🇮🇹

イタリアの高品質の衣服が、こうしてジーンズにバシッとフィットするわけは、開拓時代に遡る、歴史的な根拠がある。