「Knight’s NY diaries」カテゴリーアーカイブ

ニューヨーク日記

Yuji Takahashi, el gran Bachiano japonés 「可能性としてのバッハ」高橋悠治さん

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もともと1975年に出版された、きわめて高度なバッハ読本のなかに、日本の優れた現代作曲家・キーボードプレイヤー高橋悠治(たかはしゆうじ1938-)さんの、「可能性としてのバッハ」という対談形式インタビューが掲載されている。

(この史上まれにみる優れた書籍は、1981年に第二版が出版され、僕はそこでこの本と出会った)

そして現在、すでに80代半ばを迎えられて久しいキーボードプレイヤーのビデオインタビューを観ると、“僕にとっていい音楽っていうものはないんです。これは面白いな、僕にとって可能性があるなって感じられるのが大切で、いいとか悪いとかの価値をつけるものじゃないんです”と、相変わらず同じことをおっしゃっておられる。
こういうミュージシャンは、おそらく命が尽きるその日まで、自身の音楽の探求をし続けるのだろう。
 
他人(ひと)の作った音楽で僕が最もプレイするのがユパンキとバッハだが、僕はこれらの音楽を、良い音楽だからもっと多くの人々に聴いてもらいたいなど思ったことは一度もない。
バッハとユパンキは、僕にとって自身の音楽を創作するうえでの、極めて良質な「可能性」であり、そして最高の「絵筆」。決していいとか悪いとかの次元ではない。
考え方が全く同じというわけではないが、この日本のグラン・バッキアーノ(素晴らしいバッハ傾倒者)と僕には、少なからず共通点があると思えるのは嬉しい。

その僕が現在、最も「可能性」を感じるのが、ガルシア・ロルカの詩であり文学。来年1月26日の「富麗華」公演で、それをみなさまにご覧にいれることができればと願っています。

是非こちらのページからお申し込みください。

高橋悠治さんは僕にとって、「面白いな、可能性があるな」ということを教えてくださる、日本でもっとも素晴らしいプレイヤー。
いずれにせよ、今の世の中で、このようなクオリティの高い書籍が出版されることなど、全くもって考えられない。残念ながら世界は現在、文化芸術面において永劫の下降線を辿りつつある。

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Un lector de Bach muy avanzado, publicado originalmente en 1975, incluía una entrevista con el maestro Yuji Takahashi (1938-), un gran compositor y teclista japonés contemporáneo, titulada “Bach como posibilidad”.
Y más tarde, después de 50 años, mucho después de haber cumplido 80 años, el maestro dice: “Para mí no existe la buena música. Lo que necesito es algo que me haga sentir que “puedo tener posibilidades”.”en su última entrevista. Este tipo de músicos probablemente continuarán explorando su música hasta el día de su muerte.

Lo que dice el maestro Takahashi tiene mucho en común con mi forma de pensar. La razón por la que interpreto a Bach y Yupanqui en obras de otras personas es que para mí no son más que posibilidades maravillosas.

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Un grande lettore di Bach molto avanzato, originariamente pubblicato nel 1975, includeva un’intervista con il maestro Yuji Takahashi (1938-), un grande compositore e tastierista giapponese contemporaneo, intitolata “Bach come possibilità”.
E più tardi, dopo 50 anni, molto dopo averne compiuti 80, il maestro dice: “Per me non esiste la buona musica. Ciò di cui ho bisogno è qualcosa che mi faccia sentire che “posso avere delle possibilità”” nella sua ultima intervista. Questo tipo di musicisti probabilmente continueranno ad esplorare la loro musica fino al giorno della loro morte.

Ciò che dice il Maestro Takahashi ha molto in comune con il mio modo di pensare. Il motivo per cui eseguo Bach e Yupanqui nelle opere di altri è che per me non sono altro che meravigliose possibilità.

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Un lecteur de Bach très avancé, initialement publié en 1975, comprenait une interview du maestro Yuji Takahashi (1938-), un grand compositeur et claviériste japonais contemporain, intitulée « Bach comme possibilité ».
Et plus tard, 50 ans plus tard, bien après ses 80 ans, le maestro déclare : « Pour moi, la bonne musique n’existe pas. Ce dont j’ai besoin, c’est de quelque chose qui me donne l’impression que « je peux avoir une chance » » dans sa dernière interview. Ces types de musiciens continueront probablement à explorer leur musique jusqu’au jour de leur mort.

Ce que dit Maître Takahashi a beaucoup en commun avec ma façon de penser. La raison pour laquelle j’interprète Bach et Yupanqui dans les œuvres d’autres personnes est que pour moi, ce ne sont que de merveilleuses possibilités.

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A Very Advanced Bach Reader, originally published in 1975, included an interview with maestro Yuji Takahashi (1938-), a major contemporary Japanese composer and keyboardist, entitled “Bach as Possibility.”
And later, 50 years later, well after his 80th birthday, the maestro declared: “For me, good music does not exist. What I need is something that makes me feel like ‘I might have a chance’” in his latest interview. These types of musicians will likely continue to explore their music until the day they die.

What maestro Takahashi says has a lot in common with my way of thinking. The reason I perform Bach and Yupanqui in other people’s works, is nothing but they are just wonderful possibilities to me.

1/26富麗華公演と「インディアン」、アウトロー感を失わないリアル・アメリカンモーターサイクル

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来年1月26日、東京麻布十番ミシュラン2スター超人気料理店「富麗華」にて行うコンサートは、おかげさまで、ご予約受付開始後3日経ち、出だし好調。

すでにお申し込みいただいたみなさまに、心から感謝いたします。

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写真は、昨日初めてテストライドをさせてもらった、「ハーレィ・デイヴィッドソン」よりさらに歴史の古いアメリカン・モーターサイクル・カンパニー「インディアン(1901〜)」の‘チーフ‘というシリーズ。

ハーレィを決して悪く言いたくありませんが、年々デザイン面で「アウトロー」感を失い、「アウトドアー」感に移行しつつある同社に比べ、「インディアン」は、あいかわらず色もデザインもいい感じ。

おそらく近々、この美しい真紅の「チーフ」を購入することになると思います。

僕がニューヨークでモーターサイクル(限定解除自動二輪)の免許を取得したのは1990年。
アメリカでのバイク歴も、そろそろ35年を数えます❣️

僕のニューヨーク生活最初のバイクは、ハーレィの‘ソフテイル・カスタムFXSTC’を模した、「カワサキ(ヴァルカン)」。

僕は昔から、赤いバイクが❤️💕❤️

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来年1月26日、コンサート会場でお目にかかれることを楽しみにしています。

今回は、都内でも一、二を争う人気レストランにおけるイベント。
ご予約は、なるべくお早めに、上記のリンクページよりお済ませください‼️

1/26「富麗華」特別会場公演予約開始

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来年1月26日、東京麻布十番ミシュラン2スター超人気料理店「富麗華」にて行うコンサート。

日本時間本日10月7日、ご予約受付がスタートしました。

是非こちらのページからお申し込みください。

皆さまのご来場を心からお待ちしています❣️

写真は、すっかり秋の気配深まるニューヨーク時間10月6日(日曜日)、最も最近の僕。心身ともにベストコンディションです😊

Bodas de sangre en Tokio アントニオ・ガデス生誕88年(没後20年)記念東京公演「血の婚礼」PRビデオ

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不世出のバイラオール(男性フラメンコ舞踊手)アントニオ・ガデスの生誕88年、そして没後20年を記念して、2025年1月26日(日)、東京麻布十番のミシュラン2スター超人気料理店「富麗華」で行う「血の婚礼」コンサート。

公式予約開始は、まだあと一週間ほど先になりますが、それに先駆けて、今回公演の告知PRビデオをご覧ください。
どちらも、僕がいまも、この世で最も素晴らしいと思う、偉大なる上演芸術のアーティストへのオマージュとして作曲した三曲を使用しています。

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レオナルドの踊り ~アントニオ・ガデスへのオマージュ~

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あるバイラオールの肖像
~アントニオ・ガデスへのオマージュ~
(ニューヨーク公演)

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ナイフのバラーダ ~アントニオ・ガデスへのオマージュ~

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ご期待下さい❣

組曲「SONOKO 園子(仮面の告白)」三島由紀夫へのオマージュ初演と、イタリア人から学ぶこと

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今年の4月の東京二公演において、目下いちばん気に入っているオリジナル・ギター独奏曲を初演した。

今も我が国が世界に誇る文豪・三島由紀夫の長編小説「仮面の告白」のヒロイン・園子の類い稀なる美しさ、そして崩壊を迎える悲痛な心の叫びを描いた三部形式組曲「SONOKO 園子」である。

現在、僕の音楽の一番の大ファンは、あるイタリア人男性で、会ったことはないが、僕がFacebookに投稿すると、必ずそれについてコメントをくれ、このところ僕は、そこから多くの、特にヨーロッパの歴史について学んでいる。

自分で楽器はプレイしないが、音楽芸術を愛し、若い頃、かなり放浪したようで、ユパンキに触発され、彼のルーツを探るためにスペインのバスクまでさすらい歩いたそうだ。

僕は本来ローンナーで社交性を欠き、とりあえずSNSはFacebookのみやっているが、あまり大勢の面識のない人々とコミュニケーションを取るのは苦手。
だが、この彼はすでに一ファンではなく、僕の「アミーコ(友だち)」と言っていい。

なぜ南米のユパンキが、ヨーロッパで受け入れられたかの大きな理由についても、僕は彼から学んだ。

僕は、三島由紀夫については簡単な略歴以外特に知識があるわけではない。が、「近代能楽集」や、作曲にまで至った「仮面の告白」は、心酔と言っていいほど素晴らしいと思っている。
世界でこれだけ、特にヨーロッパにおいて未だに人気を博しているのは、やはり彼らにはない、きわめて優れた日本的な感覚によるものだと思っていた。

このジョールジオという名のイタリア人は、言葉の端々から、やはり自分たちイタリア人(特に中世末期あたりまで)が最も優れているということがうかがえるが、そのイタリア人が絶対作れないもの二つとして、ペルシャ絨毯と、僕の組曲「SONOKO 園子」をあげるくらい、僕のこの新作ギター曲を愛してくれている…

ジョールジオによると、三島由紀夫という人は、ただ単に日本的感覚に優れていただけでなく、偏見の強いヨーロッパ人にとっても全く文句のつけようのないくらい、欧州世界の歴史や細かい文化にまで精通していたようで、そのあたりの(僕たちが決して気づくことのない)オーセンティックな裏付けが、死して50年以上経っても、すでにその名も過去のものになりつつある本国よりも、未だ愛読者を多く産んでいる最も大きな理由らしい。

三島由紀夫のような人は、もう我が国には現れないだろう

生粋のヨーロピアン、ジョールジオの「お墨付き」新作ギター曲をお楽しみいただければ嬉しい。
ライヴ一発撮りによる、弾きっぱなしの全三楽章12分。
もちろん勢い余ったミストーンもあるが、僕はこのプレイをたいへん気に入っている。

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これは、約一月ほど前に、Facebookに投稿した、早朝午前7時前の、ニューヨーク・ミッドタウン、近代美術館(MOMA)で撮影された2枚のスナップ。

この写真に対してジョールジオからきたコメントをご紹介したい。

僕にとって作曲というのは「滑走路」のようなものであり、それを聴いたリスナーが、それぞれの解釈によってイマジネーションの翼を広げたところでひとつの作品として完成する。

ジョールジオは僕にとって、願ってもない「リスナー」のひとり。こういうファンがヨーロッパにいてくれるというのは、実に嬉しいことだ。

僕のイタリア語からの翻訳は、決して完全ではないが、以下どうぞ😊

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“ (写真のビル群には)曲線がなく、すべてのエッジが直角で、90 年代のビデオ ゲームのグラフィックのように見えます。なぜ三角形の部屋がないのか、なぜ古代には柱が円筒形だったのかを考えたことはありますか?
よかった、この写真にシロがいてくれてよかった、そうでなかったらすべてがエッジだった…

年老いて病気になっているので、私はイタリアの敵、教会の敵、芸術の敵と戦うことにすべての時間を費やしています……

キリストよりも古い古代のグノーシス派の異端から始めていますが、それは過去5世紀の歴史が、すべてを非神聖化し、啓蒙主義の無神論とフリーメーソンにつながるプロテスタントの異端が、神を認めないことで魂を否定し、芸術は何の役にも立たず、美しさすらなくなってしまったことをより鮮明にしています。

それらの言葉は……主義モダニズム、共産主義、機能主義……で終わると私は思うのです……

大きなガラスの箱(ビル)は進歩の象徴としてクリエイトされてきました。が、それは誤った近代性の象徴であり、外部にスペースのない檻、強迫的なモジュール性、そしてそれは単一所有権であるため、資本の独占者にとってのみ理想的なものです….

ある建物はすべてが合成であり、これらのものはほとんどすべてがナチュラルではありません。自然な素材が使われ、人間のための空間が作られていたときとは明らかに一線を画すものです…
たとえこのこととは関係がなかったとしても、私は今の世の中で、シロとの出会いで自然と調和する機会を得ました。シロのギターは木製で、エッジのないすべての曲線です。“