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Mort d’Alain Delon アラン・ドロン追悼

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À la mémoire d’Alain Delon (1935-2024)
Deux photos inédites lors de la fête à Tokyo (prises par ma mère qui travaillait pour Film Bissiness en 1977). Mon petit chien Rocco, son nom vient de ‘Rocco et ses frères’, un film italien légendaire réalisé par Luchino Visconti.

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In memoria di Alain Delon (1935-2024)
Due foto inedite alla festa a Tokyo (scattate da mia mamma che lavorava per la film bissiness nel 1977). Il mio cagnolino Rocco, il suo nome deriva da “Rocco e i suoi fratelli”, un leggendario film italiano diretto da Luchino Visconti.

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En memoria de Alain Delon (1935-2024)
Dos fotos sin editar en la fiesta en Tokio (tomada por mi mamá que trabajaba para Film Bissiness en 1977). Mi perrito Rocco, su nombre proviene de ‘Rocco y sus hermanos’, mítica película italiana dirigida por Luchino Visconti.

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In the memory of Alain Delon (1935-2024)
Two raw photos at the party in Tokyo (taken by my mom who worked for film bissiness in 1977). My little doggie Rocco, his name comes from ‘Rocco and his brothers’, a legendary Italian film directed by Luchino Visconti.

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仏俳優アラン・ドロンが、今日8月18日、88歳で亡くなりました。この二枚の生写真は、1977年、彼の来日時のパーティーで、当時映画業界で働いていた母が撮影したものですが、ずっとアルバムのなかで眠っていたものなので、今日まで公開されたことはないと思います。

現在僕がもらってニューヨークの自宅に。

僕は子どものとき「ル・ジタン」というフランス映画を観て、アラン・ドロンのファンになりました。

僕の愛犬の名前‘ロッコ’は、ルキノ・ヴィスコンティ監督による傑作イタリア映画「若者のすべて(原題:ロッコとその兄弟たち)」の、アラン・ドロンによって演じられた主人公の名に由来しています。

やはりヴィスコンティ監督の「山猫」で、世紀の美男俳優が演じた‘タンクレーディ’も命名候補にあがりましたが、ちょっと長いので‘ロッコ’に。

おかげさまで(?)ロッコは、通りを連れて歩くと、誰もが「キュート🩷」、「アドーラブル💕」と声をかけてくれる美男子になりました。

世界のアイドル、アラン・“ル・ジタン”・ドロン(1935-2024)の冥福を、仏伊西英日の五か国語にてお祈りします。

あるバイラオールへの肖像 ~アントニオ・ガデスへのオマージュ~

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来年1月26日、東京麻布十番のミシュラン2スターの超人気レストラン「富麗華」特別会場で行う公演では、タイトル曲の組曲「血の婚礼」初演の前に、もう一曲、ソロでアントニオ・ガデスに捧げるナンバーをプレイする。

「あるバイラオール(フラメンコダンサー)の肖像 ~アントニオ・ガデスへのオマージュ」。

上記のビデオは、その冒頭部分。

このソロの初演にあたって、日頃大変お世話になる東京のクロサワ楽器日本総本店クラシックギターフロアから、ホセ・ラミレス(スペイン)のクラシック弦をたくさんいただいた。

繊細で輝きのあるラミレスの弦は、中出阪蔵さん製作のギターによくフィットし、フラメンコともクラシックとも言えない独特の美しい響きで包んでくれたが、僕のアタックの強い右手フィンガリングのせいだろう。次第に高音第一弦の右指がヒットするエリアに細かいスクラッチが入り、音にザラつきが生じてきた。

ラミレスの弦は、かなりデリケートだ。

そこで第一弦のみ、これまで使用していたダダリオ(アメリカ)に張り替えたのが、このビデオの音。

大陸的な音筋の太いダダリオと、響きのバランスのよいラミレスがミックスして、ついに自分の理想のサウンドが得られた気がしている。

もう亡くなってしまわれたが、日本の画家・粟津杜子(あわづとこ)さんによる油彩「アントニオ・ガデスの肖像」。

杜子さんと知り合いだった僕の母が、この絵を買い、それを僕が譲り受け、現在ニューヨークの自宅に飾ってある。

杜子さんはガデスの大ファンだった。

1995年1月、来日したアントニオ・ガデス。中央が杜子さん。その向かって左横に僕の母もいる。
ガデスの横の背の高い女性は、元岩波ホール総支配人・故高野悦子さん。

杜子さんのご亭主(写真向かって左)は、ランボー研究第一人者のフランス文学者・粟津則雄さん。
今年(2024年)96歳で他界された。

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写真ではわかりにくいが、ガデスの肖像はポスターやリトグラフではなく、油彩による絵画。ただサイズが小さく、額に入っていないので、カードボードをあてがえばスーツケースに入れて持ち運びが可能。

来年1月26日のコンサートでは、この絵をステージに設置し、ダダリオとラミレスの弦を張った、偉大なる「バイラオール」からのメッセージとサインがしたためられた日本のギターを使用する。

実は、サインを入れてくれた直後、アントニオ・ガデスがギターを持ってニッコリしている写真もあったのだが、かつてニュージャージーでコンサートを行った際、控え室でギターケースに入れていたもの全て盗まれるという事件が起き、中にその写真も入っていた。
スキャナーも携帯カメラもない時代だったので、盗られた現物以外の記録もネガはも残っておらず、今でも残念に思っている。

アントニオ・ガデスの魂 中出阪蔵さんギター Ready 2 roll!

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来年1月26日、東京麻布十番のミシュラン2スター超人気レストラン「富麗華」の特別会場で行うコンサートで使用するため、何段階かに分けて自分自身で続けていた、明治生まれの名工・中出阪蔵さんが1978年に製作してくださったギターのアクション(弦高)下げ作業の、最終プロセスを行った。

ブリッジとナット、そしてフレットをナイフとヤスリで細かく削っては磨くのは、きわめてデリケートな作業だが、アクションはミクロの差で大きなタッチの変化を生んでしまう。

結局リペアマンには頼まず、自分で行うのがベストと判断。

仕上がりはパーフェクト💯

下記のビデオで音を聴いていただける。
今から46年前に、初めてこの楽器を手にしたときの感触がよみがえったようだ。

梁の強い、それでいて甘く語り、そして泣くサウンドは中出ギターならでは。
こんにち生産される楽器でこの音を出すのは、決して容易ではない。

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僕はそれほど楽器に対してこだわりを持つタイプのプレイヤーではないが、今回の東京公演「血の婚礼」は、どうあっても、アントニオ・ガデスからのメッセージとサインがしたためられたこのギターでなくてはならない。

2025年1月26日、「血の婚礼」と一心一体といえるガデスの魂は、きっとこの美しい音色の楽器に宿ってくれるだろう!

シローへ、仲間より敬意を。
A.ガデス
1995年1月21日

中出阪蔵さんの素晴らしいギター、組曲「血の婚礼」初演に向けて

2025年1月26日、東京麻布十番の超人気料理店「富麗華」スペシャルコンサートにて初演予定の、序曲と全四楽章構成をもつ新作ギター組曲「血の婚礼」。

これは、今回使用するギター(中出阪蔵、1978年)によるオープニング序曲(中間部)の自宅リハーサル動画。

弦は、いつもお世話になるクロサワ楽器日本総本店クラシックギターフロアの渡辺泰弘店長からいただいて、今回初めて使ったラミレスのノーマルテンションだが、このギターにものすごくフィットするようだ。

スペインと南米のちょうど中間のような、光と影に満ちた憂いのある、それでいて芯の強い深いサウンドは、現在生産されるギターでは出せない。
誕生からほぼ50年が経とうとする中出さんのギターが、いかに優れているかよくお分かりいただけると思う。

日本に、明治時代生まれのこんな素晴らしいギターの名工がいたとは、まさに驚きだ。

優れたスペインの楽器ホアン・エルナンデスとの出会いをはじめ、現在の僕のクリエイションに、クロサワ楽器は本当に大きなアジュダ(ヘルプ)をしてくれている。

この場を借りて、渡辺店長に心からの感謝の意を表します。

今から46年前の中出阪蔵さん直筆の領収書を、僕はまだ持っている。

もちろん僕がお金を出せるわけはない。当時、離婚して仕事を始めたばかりの母も、月1万円の月謝の他に10万円のさらなる出費は、もちろん右から左というわけではなかった。

これは誰よりも僕を愛してくれた、母方のおばあちゃんが、貯金をつかって買ってくれたものだ。

僕が当時弾いていたギターは、とにかくボロボロだった。

「どんな楽器を使っているのか持ってきてみなさい」と、ある日恩師・鈴木巌先生が言うので、持っていったときの先生の「うわっ!こりゃひでえ!」と叫んだ顔は、今でも忘れられない。
ケースもなかったので、いつも学校には(小林旭よろしく❗️)裸でかついで登校していた。

(鈴木巌先生と、2008年、広島世界平和記念聖堂で行われたジョイントコンサート直前のスナップ。)

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鈴木先生は、そのすぐ後に母に電話して、「今史朗くんのギターをみたが、これではせっかくの才能が伸びない。僕の親しい製作家に中出阪蔵さんという素晴らしい人がいて、僕が頼めば割引で手工楽器を作ってくれる。一生いい音で鳴ってくれるものになるので是非買ってあげてください。」と、言ってくださった。

というわけで、このギターは、鈴木巌先生が特別に中出さんにお願いして、本来15万円の価格のものを、11万5000円で作ったくださったと聞いていたが、「実はあれは25万円のクラスだったんだよ」と、後になって鈴木先生はおっしゃった。

1970年代の日本で25万円のギターといえば、今の貨幣価値でどれだけの額になるのかわからないが、いずれにせよ10代のハナタレ・お振袖衆が簡単に持てるようなものではない。

口利き料を余計に上乗せして生徒から取ったり、製作者からキックバックをもらったりする先生たちが多いなか、鈴木巌先生は、「中出さんと親しい自分の顔で、一生使える優れた楽器を安く作ってもらえるから」と言って、あくまでも門弟を大切にする、極めて尊敬できる人物だったと改めて思う。

一度学校で、悪友たちとこのギターを振り回していたとき、誤って床におっこどして表面に割れが入ってしまった(アホ!)のだが、鈴木先生はそのとき、ご自分で中出さんのところに僕のギターを持ってゆき、きれいに修理してきてくださった。

僕はそのとき、修理代を払わされた覚えがない…

こんな素晴らしい師匠が他にいるだろうか!

新作ギター組曲「血の婚礼」は、鈴木先生、中出さん、そしてこの楽器にメッセージとサインをしたためてくれた、不世出のバイラオール(男性フラメンコ舞踊手)、アントニオ・ガデスへのオマージュになる。

“シローへ、仲間より敬意をこめて、
A.ガデス 21-1-1995”

「富麗華」スペシャルコンサートは、アントニオ・ガデスがこのギターにメッセージを書き入れてくれてから、ちょうど30年を記念することになる。

暑中お見舞い申し上げます❣️

信頼できるリペアマン、そして「血の婚礼」アントニオ・ガデスの魂

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僕がたいへん信頼するリペアマンのイアンと、マサチューセッツ州レキシントンにある彼の店「ミュージック・エンポリウム」にて。

2025年1月26日、東京麻布十番・富麗華にて初演する新作「血の婚礼」は、ガルシア・ロルカの同名傑作戯曲をもとに、序曲と四楽章構成で作曲した、女性ヴォーカルと朗誦を伴う新型ギター組曲。

このコンサートでは、1981年、「血の婚礼」を、名映画監督カルロス・サウラと組み、その圧巻と言える舞踊で世界を虜にしたスペインのバイラオール(男性フラメンコ舞踊手)アントニオ・ガデスからの、素敵なメッセージとサインがしたためられたギター(中出阪蔵・1978年)を使用する。

サウラ-ガデスによるプロジェクトは、さらに1983年、それまでのエスニック映画の興行記録を塗り替えた映画「カルメン」の大ヒットにより、アントニオ・ガデスの名を不朽のものとした。

ご多分にもれずこの僕も、渡米前、東京で「カルメン」を観て、ガデスの大ファンになったことは言うまでもない。

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と、いうわけで、これまでニューヨーク以外、門外不出だったこのギターを、久々に東京公演で使用するに際し、エキスパートの専門的意見を聞くため、イアンの店を訪れた。

ニューヨークからレキシントンまでは、北へ約320キロ。
東京・白石蔵王の距離を往復するのとほぼ同じ距離をドライブすることになるが、その価値は何にも替え難い。

少なくともサンフランシスコじゃなかったことに感謝している。

“シローへ、仲間より敬意とともに 
アントニオ・ガデス
25-1-1995”

楽器を縦に見ると、ちょっと妙なところに書いた感があるが、さすが超一級フラメンコアーティスト。プレイヤーがギターを抱えたとき、自身のサインが、観客の目を最もとらえる位置を心得ていた。

2025年1月26日「血の婚礼」初演。

アントニオ・ガデスの魂が、この現在生産される楽器では出せない美しい“声”をもつギターに宿ってくれることを願っている。

マサチューセッツからニューヨークへ帰ってくる途中、コネチカット州の大西洋岸を通る。

ここは、いつも寄る“港町食堂”。

全くゴージャスではないが、こんなに気持ちよくものを食べられる場所も多くない。