July 29, 2004(ウルグアイ)

ユパンキの形見

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ウルティマス・ノティシアス紙(ウルグアイ)
July 29, 2004

いくら東洋人が実際の年齢より若く見えるにしても、彼はどう見ても素敵な青年だ。
またそのすっきりした着こなしからは、彼が日本から来たのではなく、もう長いこと暮らしているニューヨークから来ていることがよくうかがえる。
シロ、この名は今日我々の世界に大きな影を落とすことになろう。
“牛追い(エル・アリエーロ)のシロ”と名乗る、‘ビッグ・アップル’に暮らす、世界がステージのこの日本人青年の名が。


インタヴュアー / フェルナンド・マンフレディ
フェルナンド(以下F):
何故、‘牛追いのシロ’と名乗ったのですか?
シロ (以下S):
10年程溯りますが、私がアルゼンチンのユパンキのお墓を訪れて、ひとりギターで追悼演奏をしていた時です。一曲弾き終えたその時、ユパンキの声で、‘シロ、これからは牛追いのように進んでゆけよ’と語りかけられたような気がして、とても不思議な感じでした。以来この名を名乗っています。
F:
日本にいて、しかもあなたの世代では、ユパンキ の音楽に出会える 機会はそうそうなかったのではないかと思いますが、どのようにして彼の音楽と出会ったのでしょう?
S:
ユパンキは3度来日していますが、確かに彼のコンサートに足を運ぶには若すぎました。13歳のときにラジオの番組ではじめて聴いたのです。アルゼンチンもフォルクローレもわかりませんでしたが、当時すでにギターを弾いていて、ラジオでギターの特集が組まれると、どんなジャンルのものでもむさぼるように聴いていました。ただその夜のことは生涯忘れることはできないでしょう。
ラジオ番組のアナウンサーが、‘アタワルパ・ユパンキという名はケチュア語(インカ帝国の公用語)で、-遥か遠方より来る語り部-という意味をなす’と言った一言が、なにか自分の前で閉まっていた扉が大きく開かれ、それが世界へとつなっがったような感じがしました。そしてそのあとに流れた彼の音楽の美しさといったら! “栗毛の馬”というナンバーで、曲の素晴らしさもさることながら、死んでしまった愛馬に対する想いが歌になっているというのが驚きでした。‘そんなことが歌になるなんて?!’自分は音楽を聴きながら、すっかりユパンキの虜になってしまったのです。しかし、本当にその後のことを決定づけてしまったのは、‘インディオの道’というナンバーとの出会いでした。
F:
それはどのように?
S:
当時いろいろなギターの曲を耳でコピーして弾いていて、それなりに独学ギターにも自信があったのですが、どうしてもこの曲を弾くことができなかったのです。そればかりか、いったい音がどのように一本のギターから出てきているのかもわからないほどで、まるで魔法にかかってしまったようでした。後に、ユパンキは少年時に、クラシックギターを習得したという話を聞き、これを弾きこなすのには正式なギターの勉強が必要なんだと思い知りました。とにかくどうしてもこの‘インディオの道’が弾きたくて、ついにクラシックギターの先生に入門したのです。
F:
それはいくつの時ですか?
S:
16歳のときです。たまたま近所に素晴らしいギターの先生が住んでいらして、丁寧に指導してくださり、ユパンキのみならず、フランシスコ・タレガやフェルナンド・ソルなどの美しい名曲の数々が弾けるようになりました。
ただ、自分はやはりユパンキのようなギターが弾ければそれでよかったわけで、それが将来身をたてることができるなどとは子どもながらも夢にも思いませんでした。ましてやプロのギタリストになろうなどとはそれこそこれっぽっちも思いませんでした。
F:
それが何故今日につながったのでしょう?
S:
いろいろあって、1988年に、ダンスの振付師の修行のためにニューヨークに渡りました。持っていったのはギターではなく、ダンスシューズだったのです。
ユパンキやギターのことは殆ど忘れていましたが、ある日下宿していた家に一本のギターがあり、たまたまそれをいじっていたら、あの‘栗毛の馬’のフレーズが自然にでてきたのです。それを聞いて飛んできたのが大屋さんのリヴェロスささんでした。スペイン語を話すので、プエルトリコ系かと思っていましたが(笑)、顔を真っ青にして、“シロ、それはユパンキだろ?!”と言うのです。
私はまさかニューヨークでユパンキを知っている人に会えるとは思わなかったので(笑)驚いて、“ユパンキを知っているんですか?”と聞くと彼は、“私はアルゼンチン人だよ!”と興奮気味です。さらに、“シロ、私にはここに、同じくアルゼンチン出身のフォルクローレ奏者の友人がいて、彼はユパンキに息子のように可愛がられている男だ。ぜひ彼に会ってみなさい”と、ある夜その友人を家に呼んでくれたのです。 現れたのは、エドワルドという、自分より6歳年上のアルゼンチン青年で、私が弾くユパンキの曲を聴いた後こう言いました。
“シロ、ユパンキに会った方がいい。君のギターの音はユパンキと同じだ”と。そしてさらに、“なにも心配することはない。アルゼンチンに行っておいで。私がユパンキに連絡して会えるようにしてあげるから”と言うのです。
私はもちろん嬉しかったものの、アルゼンチンがどこにあるのかもわからないし(笑)、スペイン語もできないし、いま考えればたいへんな冒険でしたけれど、
結局、これは何かの縁に違いないと思い、翌89年の1月、アルゼンチンのセロ・コロラドという土地で待っていてくれているユパンキのもとに旅立ったのです。
まじかで聴いたユパンキのギターと、この冒険旅行を助けてくれた素晴らしいアルゼンチンの人々との友情が、私の運命を180度方向転換させました。ニューヨークという町が、思いもよらない素晴らしい出会いを用意して待っていてくれたのです。
F:
今後について聞かせてください。
S:
日本だけでフォルクローレのアーティストとして活動しているのであれば、ポンチョを着て、なるべく本場に近いスペイン語で歌っていればそれなりの評価を受けますが、アメリカで日本人の私が同じ事をすれば、“あいつ、頭がおかしいのか”と言われるのが落ちです。アメリカでアーティストとして活動してゆくには、自身のアイデンティティーが必要です。ただ好きな音楽を感じるように演奏しているだけでは誰も耳をかたむけてくれません。自分は、ユパンキの音楽に対する理解を深めた上で、それをベースにした日本人である私自身のカルチャーに融合させた音楽を作ってゆきたいと思っています。きっと長い道のりになることでしょう。それはあたかも一本のまっすぐ続く道を歩くようなものです。片側には、ユパンキや、南米のフォルクローレの伝統をあらわす大きな炎が燃え盛り、もう片方には、小さなマッチのさきのような小さな火がともる。いまはそれが私の音楽です。私はふたつの火の間をまっすぐに進んでゆく。そしていつか、そのふたつの火が一緒になりさらに大きく燃え盛る日を目指してね。