ニューヨーク風ヴィラ=ロボス第4番

こちらでのコンサートの際、欠かせないレパートリーのひとつにオリジナルギターソロの‘レジェンダ-伝説’ があります。
ダブルネックギターの12弦と6弦を交互に弾きながら、ラストでは特殊奏法を用いて両方いっぺんに弾いてみせるこのナンバーは、たいへんトリッキーで視覚的効果が高いため、時には主催者から“レジェンダをプログラムにいれてください”と依頼されるほど万人むけのナンバーといえます。
石川県の加賀市での公演の際に訪れた、加佐(かさ)の岬という美しい日本海の風景に、かの地に伝わる不思議な民話の雰囲気をからめて作った曲ですが、ヨーロッパでもアメリカでも中南米でも、コンサートプログラムには(民話の内容まで)かなり細かく解説されているのにもかかわらず、一切‘加賀’という言葉がでてきません。いったいそれは何故でしょうか?
実はこの ‘カガ’ という言葉、スペイン語でちょっとよろしくない意味になるのです。
スペイン語は基本的に‘K’文字を使わないため、加賀を綴ると頭の文字は‘C’になりますが、発音もアクセントの位置も日本語と全く同じなため、世界中にいるスペイン語圏の方々が、これはこういう名前の町でできた曲だということになると、みなまちがいなくプッと吹き出してしまうのはクリスタルよりもクリアーです。
というわけで、日本以外においてはどこの国でも無難な線で、北陸の大聖寺(だいしょうじ)という町の民話をベースにしたナンバーという解説にしてあるのですが、ここでこの ‘カガ’ がどういう意味になるかということは、うーん、ここまで気をもたせて申し訳ありませんがちょっと書けません。
お手数ですがお分かりにならない皆様は、スペイン語をご存知の方にお尋ねくださいますでしょうか?

‘レジェンダ’は、日本海を臨むこの美しい加佐の岬でアイディアが湧き...

気分は ‘殿様 ’、この肘掛けにもたれながら作曲しました。
これは加賀市内にある、ゴージャスな山下屋ホテルのお部屋です。
加賀は人々が優しく食べ物がおいしくて大好きになりましたが、言葉の壁はときに深刻な問題です。

今月13日は、アルゼンチンが生んだ素晴らしい詩人、レオポルド・ルゴーネス(Leopoldo Lugones 1874-1938)の生誕記念日でした。
ルゴーネスの故郷のコルドバ州リオ・セコで、毎年彼を記念して行われるフォルクローレフェスティヴァル‘カント・イ・ポエシーア’祭への2回の招演は、コスキン祭同様、アルゼンチンフォルクローレのエネルギーを体感し、吸収することのできた最高の経験になりました。
写真はブエノスアイレスの古本屋を探し回って見つけた、ルゴーネスの詩集‘リオ・セコのロマンス’


カント・イ・ポエシーア祭で’演奏する私

91年、日本のワールドミュージック専門誌‘ラティーナ’に、私自身がルゴーネスの詩を引用して書いた読み物‘ユパンキが導いてくれたルゴーネスの故郷.... 北部コルドバ州の力強いフォルクローレ’
タイトな演奏旅行などに備え、いつも健康でいられるように続けているのがフェンシングです。
一時間もやっていると、もう水をかぶったように汗だくになりますが、これによって鍛えられるのは肉体面だけではありません。
ニューヨークなどというところは、宗教や考え方の違う人々がごちゃごちゃに交じり合って暮らしているジャングルのようなところなので、以前はちょっとしたことでアップセットすることがしばしばでしたが、フェンシングのおかげでだいぶ精神面においても鍛えられ、あまりいろいろなことに動じなくなりました。素晴らしいスポーツだと思っています。
アメリカでは、フェンシング人口が実に18、000人足らずということでかなりマイナーなスポーツといえますが、私はこれがきっかけでいろいろな歴史の本なども読むようになり、過去に実在した、素晴らしい考え方を持った人たちについても学ぶことができました。
過去から学び、そして未来を見る。
いまの私の生活の半分くらいをしめているのがこのフェンシングです。

読んだ技術書は数知れず!
“ふだん私たちが送る日常生活から、もっともかけはなれた状況に身をおくことによってはじめられるスポーツ”、フェンシング。
このフェンシングや、騎士の世界について“もっと知りたい!”という方は、さあ、下の扉を開けて、隠された秘密の部屋 ‘騎士の間’ にお入り下さい。


私の大親友であり、人生の大恩人であったエドワルド・マルティネス・グワジャーネス(本名ラモン・エドワルド・マルティネス)。
アルゼンチン、コルドバ州のセロ・コロラドの出身で、ユパンキの名曲に歌われた‘ギジェルマおばさん’を実の祖母に持ったこのフォルクローレ歌手とのニューヨークでの出会いによって、私はユパンキのフォローアーとしての道のりを歩むことになりました。
南米大陸を吹き抜ける風のような詩情に溢れた彼のギターと歌声は、私がどんなにがんばっても真似のできない深い味わいがあり、 私はいつか、エドワルドとのコンサートが日本でできることを願っていましたが、1998年、彼は42歳の若さで、ガンのためにこの世を去ってしまいました。今年は日本的に言えば彼の七回忌にあたります。
私はエドワルドが生前私にしてくれたことに心から感謝するとともに、きっとユパンキと一緒にギターを弾いているであろう天国から、これからも私の長い道のりを見守ってくれるよう祈るのです。
エドワルド・マルティネス・グワジャーネス(1956ー1998)

エドワルド(左)がニューヨークで発行していた‘ビダ・イ・エコロヒーア(ライフ・アンド・エコロジー)’誌の集まりで、ユパンキの曲をデュエット

エドワルドとともに

私は映画 ‘ウエストサイド物語’ の大ファンです。
この不滅のミュージカルの金字塔に強い影響を受け、当時ダンスに没頭していた私は1988年、(ベルナルド役を演じた)ジョージ・チャキリスが、長い下積みのあと、ニューヨークで(’ウエストサイド’をバーンスタインらとともにクリエイトした)ジェローム・ロビンスに会うことによって成功のきっかけを作ったというエピソードだけを胸に、”ニューヨークに行けば会うべき人に会える”と自分自身に言い聞かせながら、誰ひとりあてもない土地へと単身乗り込んだのでした。
写真は、あるファンの女性が作ってくださった特製‘ウエストサイド’ケーキです。
食べないで、ずっと冷凍しておこうかなどなどいろいろ考えましたが、結局彼女の意向もあり、涙をのんで食べました。
ウエストサイドよ永遠に!!!
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アンダルシアのレモンと、イタリアの濃厚なハチミツに、アタウアルパ・ユパンキの魂が溶け合う、静寂のグロリエータ(四阿)「カンテホンド・イベロアメリカーノ」の音楽世界