リアル USウィークリー・ビズとのインタビュー

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リアル (USウイークリー・ビズ 2010年9月4日号)

~世界各国から招待を受ける演奏家~

フォルクローレ・ギタリスト 大竹史朗さん

南米で生まれた民俗音楽”フォルクローレ”。
その最高峰のギタリスト、アタウアルパ・ユパンキの音に魅了され、子どものころギターを手に取った日本人こそ、フォルクローレ・ギタリストとして名を馳せる大竹史朗(シロ・エル・アリエーロ)、その人だ。
ギタリストとしての人生に疑問を抱いたこともあったが、見えない糸に手繰り寄せられるように、さまざまな人との出会いが今の大竹を導いてきた。
そんな宿命ともいえる彼の半生に迫った。


心打たれた音楽がすべて糧に 最良の筆で描く演奏届けたい

もともと音楽を愛好する家に生まれた大竹は、13歳の時、ラジオから聴こえてきたユパンキの音楽に衝撃を受け、フォルクローレギターに手を伸ばす。
当時、NHKでギター講座をしていた鈴木巌氏の下で基礎となるクラシックギターを学び、みるみる上達していった。しかし、ギター音楽が過渡期を迎えるとともに、大竹のギターへの熱は冷めていったのである。

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ギターをやめた大竹の興味は、一度はダンスへと向いた。ブロードウエイ出演を夢見て、26歳で単身渡米。アルゼンチン人の家に下宿し、ダンススタジオに通って、日々練習に励んだ。
ある日、家の庭に置かれていたギターを手に取った大竹は、無意識のうちにユパンキの曲を弾いていた。すると、その家の大家が「今ユパンキを弾いただろ!お前の音はユパンキの音と同じだ」と、血相を変えて飛んできた。そして、大家の友人であるアルゼンチン歌手エドワルド・マルティネスを介し、子どもの頃あこがれていた「神様」アタウアルパ・ユパンキに出会うチャンスを手に入れた。1989年1月。戸惑いつつも、大竹はギター一本だけをかつぎ、アルゼンチンへと向った。
ユパンキの別荘はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスから遠く離れた山村にあった。念願の初対面を果たし、早速ギターを聞かせるも”ぽんぽん”と気のない拍手。別の曲を弾くもまた同じ反応。「クラシックギターは弾けないのか?」と言われ、唯一覚えていたバッハの曲を弾くと、ユパンキの態度が一変、身を乗り出して聴き入り、終わると満面の笑みで拍手を送った。そこからは、「ここはこう弾くんだ」と、自らギターを手に取り、大竹に指導さえ始めてくれた。初めて直に聞くユパンキの音。その音は、大自然と融合し、まるで目に見えるようだった。13歳の時、ユパンキの音楽を聞いて感動した思いが、時と国境を越えてよみがえってきた。そして、再びギターの道へ進もうと誓うには十分な「出会い」だった。

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92年1月、大竹は広島で演奏家としてのスタートを切った。ユパンキが来日した際に、自ら書いて広島に贈呈した〔ヒロシマ~忘れえぬ町〕という詩に大竹がメロディーを付け、ユパンキから正式に演奏許可をもらう。そのお披露目コンサートが行われた。その後の大竹の活躍は目覚しく、世界各国からフォルクローレ・ギタリストとして注目を浴び、このまま順風満帆に歩んでゆくと誰もが思った。
しかし、注目を浴びれば浴びるほど、ユパンキの存在が大竹に大きくのしかかっていた。「自分は今まで得意なことばかりして甘やかされていた。もっと人生経験を積み、自分の壁を打開しなければ」とギターを離れ、旅行代理店に就職。そして一年半後、国際交流基金によるポーランドとフランスへの派遣の話しを機に、再び音楽の世界に戻った。女性歌手クリスティーンとの出会いから、子どものころに難曲ゆえ断念したヴィラ=ロボスの音楽を自分のレパートリーに加えたのもそのころだ。おかげで音楽の殿堂カーネギーホールで演奏するチャンスまで手に入れることができた。

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「子どものとき、心を打たれたバッハ、ユパンキ、ヴィラ=ロボス。13歳から長い年月を経て、これらがすべて糧となり、今の自分を作っている」と大竹は話す。「自分のオリジナルを加えた4つの音楽は、わたしにとって最良の筆。それらを手にするまでにはたくさんの厳しいこともあった。その中で助けてくれた人、そして全てのお客さまに、最良の筆で描くフォルクローレ音楽を聴いていただきたい」と語った。
(敬省略)(文・上西陽子)