全日空機内誌「ウイングスパン」インタビュー記事

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ちょうどホームページのリニューアル中だったこともあり、少々ビハインドになってしまいましたけれど、今年の6月、全日空の機内誌「ウイングスパン/翼の王国」に掲載された、日本に生まれ、現在国際的に活動する人物にスポットを当てる人気コラム、’アウトバンド・ジャパン’のインタビュー記事を日本語に訳しました。

これは、私が受けた英語による最初の長時間インタビュー。
写真は、ニューヨークでの取材時のものです。
”こんな記事になるの。”と、同コラム担当の通信員、ランディーさんが持ってきてくれた私が持っている号の’アウトバウンド・ジャパン’は、国際俳優ケン・ワタナベとのインタビューでした。

ランディーさんと私は同世代で、終始とてもいい感じのインタビューに。
”僕はケン・ワタナベのような有名人ではないけど、なぜ僕をこのコラムに選んだの?”と、私が尋ねると、彼女は、”あなたほどこのコラムに適した人物はいないわ。”と、言ってくれました。

ランディーさんは、今年の2月、ブエノスアイレスで行ったパフォーマンスの会場にも取材に足を運んでくれました。
彼女の熱意が感じられる、とてもクオリティーの高いインタビュー記事になっていると思います。

実は、ヨーロッパに暮らす少々度が過ぎる女性ファン数名のため、私はオンライン上に自分の連絡先を出していません(現在ほぼ解決!)
このためランディーさんは、ニューヨークのアルゼンチン大使館に連絡し、私とコンタクトをとってもらえるよう要請したそうです。

翻訳は、あまり硬くせず、彼女と当日話したようにナチュラルに訳してあります。

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アウトバウンド・ジャパン ’大竹史朗’

Striking Cross-Cultural Chords

”そんなわけで、僕の奏でるバッハがユパンキの心をとらえ、そのあと彼は僕にギター奏法のマジックを手ほどきしてくれた。
ユパンキはテクニックを教えてくれたわけじゃなく、彼が伝えてくれたのはフィーリングだけだったけど、僕にはそれでじゅうぶんだった。”

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ランディー(以下R):私たちの世代のほとんどがポップミュージュックに夢中になっていたときに、ユパンキの何があなたをそんなに魅了したのだと思う?

史朗(以下S):それは最初の一音だったんだ。とにかくほかのものがみんな吹っ飛び、僕は完全にノックアウトされてしまった。
それで楽譜を読むことを覚え、ギターも上達したと思う。でもすべて独学だった。

当時NHKがギターの講座テレビ番組を放送していて、僕は毎週それを観ていたんだけど、鈴木巌さんという先生の教えかたがとても素晴らしく思えた。
そうしたら彼は、偶然にもぼくの家からとても近いところに住んでいて教室を持っていた。
それで16歳になったとき、鈴木先生の門を叩いたというわけ。

R:プロのギター奏者をめざそうと最初に志したのはそのときだったのかしら?

S:鈴木先生は、“史朗くんには才能がある。もし望むならプロへの道を歩む協力をするよ。”と言ってくれた。
だけど僕は、もしプロになったとしても果たして本当に自分の弾きたい音楽がプレイできるだろうかと思ったんだ。

僕はとにかく、ただユパンキのようにギターを弾きたいだけだったからね。日本人の僕が、これから1980年代を迎える今の時代に、いったいユパンキの音楽でなにができるだろうっていう感じだった。

R:それで、どのようにチャンネルを切り替えたの?

S:友達に誘われて空手同好会のメンバーになったんだけど、これが面白くてね。黒帯にもなったんだよ。
そんなある日、空手の師範が僕に、“体が驚くほど柔軟だ。踊りに適しているね。ダンスを学んでみたらどうだい?”と言うんだ。
僕はビックリしたんだけど、当時、映画「ウエストサイド物語」に影響されていてね、ベルナルドを演じたジョージ・チャキリスみたいになれたら素晴らしいななんて思っていたから、結局大学には行かずに専門学校に進み、そこで演劇とダンスを学び、卒業後は‘民藝’というプロの新劇の劇団に入ったんだけど、ここは馴染めなかった。

R:それから次のアクションは?

S:結局ニューヨークに来ることを決めた。最初は慣れるのにちょっとたいへんだったけど、だんだんオーディションなどでダンスの仕事もできるようになってきた頃、僕の人生で最大の転機がやってきた。

当時、クイーンズ区のフォレストヒルズにあるラテンアメリカからの移民の家族の家に下宿していたんだけど、ある日庭に置いてあったギターを何年かぶりにボロボロ弾いていたら、不思議なことに少年時の僕を魅了したユパンキの‘栗毛の馬’がでてきた。
すると家の大家さんのホセが血相を変えてすっとんできてね、なんと彼はアルゼンチン出身で、ユパンキの大ファンだと言う。
さらに彼は、“史朗のギターはユパンキの奏でる音と同じだ。友人にエドワルドという、やはりアルゼンチン人で、ユパンキととても親しいミュージシャンがいるから会うべきだ。”と言うんだ。

でも僕は、“君の踊りはバリシニコフみたいだ。”と言われたくてニューヨークに来たわけだからね、正直のところ、ユパンキと同じギターの音と言われても、そのときはあまり嬉しくなかった。

そんなある夜、エドワルドが僕に会いに来てくれた。
それで、やはり僕のギターの音はユパンキと同じだとつぶやいた後、自分が全部アレンジするからアルゼンチンに行ってユパンキに会っておいでよと言い出したんだ。

R:結局なにが、そんなあなたをアルゼンチンに行かせたのかしら?

S:いろいろ悩んだんだけど、10年後、自分が36歳になったときのことを考えてみたよ。レヴェルの高いニューヨークで、もし運がよければダンスのインストラクターくらいになれるかもしれないが、おそらくいま自分の目の前にあるギターの巨匠との縁のような幸運は、どう間違っても降ってこないだろうと思えた。
これはまさに、天からの声なんじゃないかってだんだん思えてきたんだ。

ユパンキはぼくをコルドバ州のサマーハウスに呼び、なにかクラシックギターの曲を弾いてみろと言った。
ぼくは当時、もうクラシックの練習をしていなかったけれど、唯一おぼえていたバッハのブーレを弾くと、彼は満面に笑みをたたえて“ブラボー”と叫んで喜んでくれた。
そんなわけで、僕のバッハがユパンキの心をつかんだんだ。そのあと彼は、そのギター奏法のマジックを手ほどきしてくれた。ユパンキはテクニックについては特になにも言わず、教えてくれたのはフィーリングのみだったけれど、僕にはそれでじゅうぶんだった。

R:コラボレーションのきっかけは?

S:ユパンキは1976年に広島を訪れ、’ヒロシマ〜忘れえぬ町’という詩を書いていた。
僕はユパンキの詩に作曲するなんてことは全く考えていなかったけれど、この素晴らしい詩を読んだ瞬間、本当に自然に曲想が湧き上がってきたんだ。
ユパンキはこの作曲を共作曲として認可してくれ、僕はそれがきっかけで広島に招待を受けてデビューリサイタルを行うことができた。

僕はいまでも、ユパンキと僕自身の融合と呼べる音楽を創ろうとしている。
二年前、日本の大女優、香川京子さんとのコンビで、香川さんに僕が日本語に訳したユパンキの詩を、僕が弾くバッハやオリジナル曲にあわせて朗読してもらうというスペシャルコンサート‘アルゼンチン風バッハ’を東京で公演した。
これは素晴らしかったよ。

R:これからのキャリアについて話してもらえる?

今年の暮れ(2013年)、朝鮮半島に伝わる伝説からインスピレーションを得て書いた最新の作曲のひとつである‘ハンアの舞’の初演を東京で行ったあと、1月と2月はコルドバ州政府の招待を受けてアルゼンチンに行くんだ。
ブエノスアイレスでは日本大使にもお目にかかる予定。
そのあと4月は再び東京で、サウンドトラックを担当した日本映画‘無花果の森’のプレミアと渡米25年記念のリサイタルでの演奏。
そのあとニューヨークに戻って新しいCDアルバムの録音を行い、6月にはパラグアイとアルゼンチンをツアーという予定。
このツアーでは、‘神々の炎’という新曲を初演するよ。