Canción de la juventud 青春の歌 ~心の母校・青山学院へのオマージュ~

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Una presentación homenajeada a Aoyama-gakuin, mi alma máter que tenia que despedirse debido de la triste situación de mi familia cuando yo tenia 13 años de la edad, justo antes que encontrar a la música de gran Atahualpa Yupanqui, un momento más importante de mi vida.

An homage presentation to Aoyama-Gakuin, my alma mater I had to bid farewell due to my family situation when I was 13 years of the age.
It was just a few month before I encountered Atahualpa Yupnaqui’s greatest art, and it was also the most important moment in my life.

僕はかつて、青山学院初等部を卒業後、同学院中等部に進学したが、二学期を終えた時点で事情により退学し、世田谷区立の中学校に転校した。

青山学院中等部は、数ある日本の学校のなかでも、最も素晴らしいロケーションといえる青学キャンパスの中、六本木通りに近い、結構勾配の急な坂に面して建築されていたが、僕の同学院での6年半は、身体中の水分が、すべて目から滝のような涙となって流れ落ちてしまったと思えたほどの深い悲しみとともに、この坂を下って去ってゆくことで終わった。

それは、南米の巨匠、アタウアルパ・ユパンキの音楽に心から打ち震え、ギターと真剣に取り組むことになる、わずか数ヶ月前のことだった。

これは、当時の同窓生の女性が誘ってくれ、実に数十年ぶりに中等部を訪れた際に受けたエモーションから作詞作曲したナンバー。

とりあえず作者の僕が歌っているが、将来的に僕が歌うのではなく、オーケストラやピアノをバックに歌うことのできる本格的なシンガーにこの歌を歌ってもらうために、雰囲気をわかってもらえるよう制作したデモ録音
ただ、すぐにニューヨークでひとり候補が見つかったものの、その人物と直接話してみて、なんとなくこの歌を歌ってもらう気になれずに断って以来、長くほったらかしになっていた音源を、今回、東京、ニューヨーク、メキシコシティー、そしてパリ、ストラスブールでのスナップ、さらに僕の、青学時代の写真(!)などとともに、ひとつの物語性を出したビデオとして公開したもの。

正直言って(僕が歌うタイプの歌ではないので)僕の歌唱はイマイチだが、楽しんでいただけると嬉しい。
ギター・オーケストラの伴奏パートはとても気に入っている。

いまでも、当時の同窓生たちの多くが僕を応援してくれていて、こんなに嬉しいことはない。

数年前、初等部と中等部のときの同窓生たちが招待してくれた夕食会で、彼らは僕を、青山学院大学を正式に出たことにする運動を起こそうと思うがどう思うかと聞かれ、本当に涙が出るほど感激したが、彼らに深く感謝したうえで、やはりその提案は思いとどまってもらった。

しかし、そのときどんなに嬉しかったことかわからない。
青山学院は、僕にとっていまでも永遠の心の母校だ。

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ところで、転校した区立の富士中学校は、広い世田谷区のいちばん東の端、数歩歩くともう目黒区にはいる、渋谷にすぐ隣接する代沢というエリアにあった。

もちろん青山学院とは雰囲気を一変したが、生徒たちはみな優秀で、山の手の上品さと、下町風の人なつっこさを実にバランスよく兼ね備えていて、すぐに僕を仲間として受け入れてくれ、学校を代わってからも、実に一度も嫌な思いをしたことはなかった。

青山学院では、初等部の頃から、自宅でのラジカセを使った英語教育が行われていたので、富士中のクラスメートたちには(教科書をまだ持っていたら持ってきてと僕に頼んだ)先生も含めて、たいそう驚かれたりしたが、どうして富士中も教育水準は高く、みなその時点で、青学ではまだ教えられていなかった筆記体で英文をスラスラと書くことができた。

良い環境の学校に転入できたことは、本当にラッキーだった。

青学時代は歌が上手く歌えなかったので、聖歌隊には入れてもらえず、また、速く走ることもできなかったのでラグビー部にも入ることはできなかったが、富士中に移った途端、ギターと音楽が生活のすべてとなり、またどういうわけか水泳部に在籍し、校内大会のバタフライで記録を出したり(!)など、じょじょに身体能力も上がっていった。

アタウアルパ・ユパンキ奏法と実践」なる、楽譜と解説つきの本を執筆(?!?!)したのもこの頃だ。
いまもしそれが残っていたら、大爆笑だっただろう。

また、聴きたいレコードがあると、とにかく東京じゅうのレコード店を歩きまわって探すことに明け暮れ、お小遣いを少しでもレコード代にあてるため、電車は当然児童料金で乗り、さらに帰ってくるときは最低区間だけ買って乗車し、最後、家のそばの駅のプラットホームから飛び降りて帰宅するなどのハナレワザをやってのけていた。

さらに三年生になると、下級生の女の子たちのファンクラブ(!)ができたので、彼女たちを集めて水飲み場に腰かけ、5〜6曲ほどのギターリサイタル(!)など行うようになり、特に影響を受けていたホセ・フェリシアーノばりのサングラスなどかけ、怪しげなスペイン語や英語で歌も歌っていた(!!!!!)

さらに、スペインのギタープレイヤーのマネをして、シャツの胸元を大きく開けて十字架のネックレスをちらつかせるなどのファッションで学校に通っていたので、よく先生に怒られた。
ギターは、おばあちゃんが知り合いからもらってきた、鈴木ヴァイオリン製の古い楽器だったが、ケースがなかったので、いつも裸のまま、小林旭よろしくかついで通学していた。
授業中ギターを弾いていると、当然先生に注意されたが、”いま忙しい”などと答えたので、よく母は学校に呼び出された。

なんといっても生活環境の激変に対する、多少の違和感がずっとつきまとってはいたものの、公立の学校でのびのびと成長できたことは間違いない。

それが、最後の修学旅行の際、かつての渋谷駅の東横線の改札口が集合場所となっていて、ここは、青山学院の中等部の生徒たちの通学路だったため、僕はそこで、もうほとんど忘れかけていた当時のクラスメートたちが颯爽と歩いているのを見た。

久しぶりに見た青学の生徒たちは小粋で、特に女の子たちの、胸ポケットに紋章が縫い取られた、エレガントなグレーのブレザーにチェックの(セミ)ミニスカートという制服が、あまりにチャーミングで光り輝いて見え、埃っぽくさえない学生服に運動靴というおキマリの公立スタイルのいまの自分が、なんともみすぼらしく感じられ、僕は慌てて「俺はここはダメなんだ!」と言って、コソコソと富士中の友達の陰に隠れてしまった。

いま、当時の富士中と、青学の同窓生が一緒になって応援してくれること、それは本当にかけがえない。