「Hombres Grandes,Criollos Fantasticos」カテゴリーアーカイブ

大いなる人々、そして素晴らしき南米人たち

偉大なる詩人、レオポルド・ルゴーネス

リオ・セコのロマンス

今月13日は、アルゼンチンが生んだ素晴らしい詩人、レオポルド・ルゴーネス(Leopoldo Lugones 1874-1938)の生誕記念日でした。
ルゴーネスの故郷のコルドバ州リオ・セコで、毎年彼を記念して行われるフォルクローレフェスティヴァル‘カント・イ・ポエシーア’祭への2回の招演は、コスキン祭同様、アルゼンチンフォルクローレのエネルギーを体感し、吸収することのできた最高の経験になりました。
写真はブエノスアイレスの古本屋を探し回って見つけた、ルゴーネスの詩集‘リオ・セコのロマンス’

カント・イ・ポエシーア祭

カント・イ・ポエシーア祭

カント・イ・ポエシーア祭で’演奏する私

ラティーナ

91年、日本のワールドミュージック専門誌‘ラティーナ’に、私自身がルゴーネスの詩を引用して書いた読み物‘ユパンキが導いてくれたルゴーネスの故郷.... 北部コルドバ州の力強いフォルクローレ’

魂のフォルクロリスタ、エドワルド・マルティネス・グワジャーネス

エドワルド・マルティネス・グワジャーネス

私の大親友であり、人生の大恩人であったエドワルド・マルティネス・グワジャーネス(本名ラモン・エドワルド・マルティネス)。
アルゼンチン、コルドバ州のセロ・コロラドの出身で、ユパンキの名曲に歌われた‘ギジェルマおばさん’を実の祖母に持ったこのフォルクローレ歌手とのニューヨークでの出会いによって、私はユパンキのフォローアーとしての道のりを歩むことになりました。
南米大陸を吹き抜ける風のような詩情に溢れた彼のギターと歌声は、私がどんなにがんばっても真似のできない深い味わいがあり、 私はいつか、エドワルドとのコンサートが日本でできることを願っていましたが、1998年、彼は42歳の若さで、ガンのためにこの世を去ってしまいました。今年は日本的に言えば彼の七回忌にあたります。
私はエドワルドが生前私にしてくれたことに心から感謝するとともに、きっとユパンキと一緒にギターを弾いているであろう天国から、これからも私の長い道のりを見守ってくれるよう祈るのです。

エドワルド・マルティネス・グワジャーネス(1956ー1998)

ビダ・イ・エコロヒーア

エドワルド(左)がニューヨークで発行していた‘ビダ・イ・エコロヒーア(ライフ・アンド・エコロジー)’誌の集まりで、ユパンキの曲をデュエット

エドワルドとともに

エドワルドとともに

アルゼンチンフォルクローレについて

アルゼンチンフォルクローレは、もともとアンデスの先住民であるインディヘナの文化に、スペインのギター音楽をはじめとするヨーロッパの香りがミックスされ、それが広大なアルゼンチンの土の上で育まれた魅惑的な民族音楽ですが、ギター音楽のひとつのカテゴリーとして、巨匠アタワルパ・ユパンキの手により世界的芸術の位置にまで高められました。
ここではその代表的なリズム形式についてふれてみました。

続きを読む アルゼンチンフォルクローレについて

アタウアルパ・ユパンキ

yupanquiAtahualpa Yupanqui
(アタワルパ・ユパンキ / アタウアルパ・ユパンキ)
1908年1月30日アルゼンチンのブエノス・アイレス州カンボ・デ・ラ・クルースに生まれる。
ギタリスト・歌手・作曲家・詩人・随筆家…と幅広く活躍していた。

父は鉄道関係の役人で、ケチュア族インディオの血をひき、母はバスク人移民の家系の出。
6、7歳の頃から聞き覚えでギターを弾き始める。9歳の夏にトゥクマンに移り、以後農業の人夫、牛追い、きこり、新聞記者などをしながら学校生活を送り、その間放浪の旅を繰り返す。
この頃から作曲や詩作を開始し、1929年インディオの魂をうたった曲「インディオの道」を発表。以来、アルゼンチンの人々やインディオの生活、風物を独自のスタイルでうたい続ける。
著作も多く手がけ、’39年に処女詩集「EL CAMINO(道)」を、’45年に随想集「Aires Indios(インディオのしらべ)」などを出版したほか、レコードも出すなど、多岐にわたって活躍。
’43年には郷土音楽舞踊団を率いて初めてカルナバリートの音楽と踊りを紹介し、今日の盛んな民族音楽芸術の先がけとなる。
’48年亡命の形で渡仏。エディット・ピアフに師事し、ピカソとも親交があった。
また、パリの国際民謡祭で大賞を獲得したほか、講演も行い、ハンガリー民族学会の名誉会員に推挙された。
さらに映画「石の地平線」の音楽によりベネツィア国際映画祭大賞を得るなど、国際的な活躍をみせ、中南米音楽の新しい道を拓いたフォルクローレの父として広く知られる。
3回にわたって来日したことがあり、各地のステージからその至芸が伝えられた。
1992年5月23日(84歳)フランス南部ニース没。

ギターは空洞の木の箱である。
それを弾くものは、澄んだ清らかな魂を満たさなければならない。