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ユパンキが詩を書き、私が作曲をした「ヒロシマ〜忘れえぬ町」を世に出し、そしてさらには、ニューヨークで活動こそしていたものの、当時まだまだこれからという状況にあった「風来坊」同然の私を、正式に南米音楽の奏者としてデビューさせる機会までをも作ってくださったのが、広島の故山崎克洋(やまさきかつひろ)さんです。
恩人である山崎さんが生前、「ヒロシマの歌」への思いを込めてしたためた、「ラテン系アーティストにみるヒロシマ」とタイトルされたエッセイ(汐文社”ヒロシマと音楽”に掲載)が、最近オンラインでも読めるようになりました。
ぜひ、こちらをクリックしてお読みいただければと思います。
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「ヒロシマ〜忘れえぬ町」は私とユパンキの共作曲ではなく、天国の山崎さんとユパンキが、時空と国境を超えて力を合わせてできたものだと私はいつも思っています。
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(写真上)山崎克洋さんと私、1993年7月、広島市において
(写真下)山崎克洋さん、1966年4月、広島を訪れたアタウアルパ・ユパンキと
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In Memory of Katsuhiro Yamasaki (1934-2008)
ユパンキのお告げ、そして山崎克洋さん追悼
カーネギーホール公演を約二週間後にひかえ、主催者から、当日の会場入りやドレスリハーサルなどのタイムスケジュールの連絡も受け、あとは体調に留意をしながら、現在この責任重大なパフォーマンスを成功できるよう準備をしている私ですが、そんな私の前に一週間ほど前、ユパンキがひょっこり夢に現われ、これまた実に不思議なことを言ったのです。
続きを読む Un mensaje de Don Ata…..’Adios Tanguito’ →
いまを遡ること14年前、1994年2月、盛夏のアルゼンチン、コルドバ州セロコロラド。
私は、そのさらに5年前の1989年1月に、かの地においてギターの手ほどきをしてくれたアタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)のお墓を訪れ、追悼演奏を行いました。
ユパンキとのセロコロラドでの出会い同様、このトピックも、これまでウェッブサイト上でご紹介をしていなかった当時の記録です。
続きを読む Juramento al Don Maestro -ユパンキへの誓い- →
アタウアルパ・ユパンキの素晴らしき詩の世界 VIII
今春、広島市において、アタウアルパ・ユパンキ(1908-1992)の生誕100年を記念するスペシャル・コンサートを現在計画中です。
ユパンキは生前、広島を心から愛し、一遍の詩を書き残しました。
そしてその詩に出会ったおかげで、私は音楽家として光のあたるところに出ることができたのです。
1992年11月12日、実際に広島とはなんの縁もゆかりもない私のためにかの地のみなさんが開いてくださったコンサートは、それは本当に素晴らしく、華々しいものでした。
原爆ドームをバックにした、息を呑むような美しいユパンキの写真(上)は、その際のコンサート・プログラムの表紙です。
続きを読む ヒロシマ 忘れえぬ町 →
今回の日本滞在における最初の公式日程が、去る3月17日に広島市に今度新しく発足した「広島スペイン協会」の設立記念セレモニーでのゲスト演奏でした。
午後7時からはじまった懇親会の席で、私はユパンキの「兄弟たち」、ユパンキと、スペインのマヌエル・ベニーテス・カラスコの共作による「微笑みながら坊やは眠る」、そして、私にとってかけがえのないナンバー「ヒロシマ 忘れえぬ町」を演奏。さらにアンコールでは、なにかスペインのものをということで、マヌエル・デ・ファリャの「七つのスペイン民謡」から”エル・パーニョ・モルーノ”のソプラノ・パートをギターの弾き語り(!)にて披露。これは世界でもやる人はかなり少ないはずです。お集りいただいた皆さんはとても珍しいものを聴いていただいたのだと思っています。
東京生まれで現在ニューヨークに暮らす私ですが、ユパンキの詩が縁となって、私を世に出してくれることになった広島は故郷も同然です。
その広島で今回こうしてスペイン協会が発足することになったのは大きな喜びです。
広島スペイン協会の今後のご発展を心よりお祈りいたします。
写真)広島スペイン協会設立記念式典懇親会にて。
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アンダルシアのレモンと、イタリアの濃厚なハチミツに、アタウアルパ・ユパンキの魂が溶け合う、静寂のグロリエータ(四阿)「カンテホンド・イベロアメリカーノ」の音楽世界