2002 秋(日本)
岩手日報 2002年 秋
NHKテレビのインパクトから、岩手県の政府や観光局がバックアップしてくれ、松尾八幡平のオクトホールで行ったコンサートでは20名の混声合唱でこのナンバーを披露。
2年後の‘啄木祭’ではさらにスケールアップして、30名の混声大合唱で話題を呼びました。
August 28, 2002(ホンジュラス)
ギターを泣かせた
エル・エラルド紙(ホンジュラス)
August 28, 2002
August 28, 2002(ホンジュラス)
日本とホンジュラスはひとつに
エル・エラルド紙(ホンジュラス)
August 28, 2002
2002 春(日本)
岩手日報 2002年 春
岩手県の松尾八幡平(まつおはちまんたい)にある、不思議な泉 ‘金沢清水’ にまつわるアイヌ伝説をもとに ‘マトーコタンの物語’ という合唱曲を一年がかりで作りました。
これはそのお披露目コンサートを盛岡で行ったときの新聞記事ですが、これをうけてNHKの盛岡支局でも、ライヴとインタヴュー構成によるテレビ番組を制作してくれ、大きな反響がありました。
1998(日本) 毎日新聞 ひと
組曲‘ナンブ’を作った
フォルクローレ奏者
やはらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
石川啄木の歌を詞に、琴の音に似た美しい旋律をギターの指から弾く。
ニューヨークを拠点に南米のフォルクローレ(民族音楽)の演奏活動を続けて10年の今年、ふるさとに思いを寄せたオリジナル組曲「ナンブ」を完成させた。
「啄木の故郷、岩手を2年前の夏に訪れ、"北上"という彼の言葉に強烈な郷愁をおぼえ、この曲を作りました」
東京で9月、お披露目コンサートを開き、続いて盛岡のライブでは、涙を流して聴いてくれた人もいた。
いとしい人に合えない甘酸っぱい切なさ。それに似た気持ちを「日本」に感じている。
中学生のとき、アルゼンチンのギターの巨匠、ユパンキの来日公演をラジオで聴き、情感豊かな演奏にひきつけられた。ギタリストを志し、26歳で渡米した。
ユパンキに手ほどきを受けた実力派。とはいえ、技量が上達すれば上達するほど「自分はユパンキにはなれない」と悩んだ。
吹っ切れたのはユパンキが亡くなった2年後の1994年。アルゼンチンの山村の小高い丘にある墓の前で弔いの演奏をしたときだった。
「シロ、アリエーロ(牛追い)のようにギターを弾くんだ」。師匠の声が聞こえた。名をシロ・エル・アリエーロと改め、自分の音楽を切り開こうと決意した。
「今、僕の中にいい意味で"日本的なもの"が根づいている」
南米と日本の融合という新たな試み「ナンブ」は来春、ボストンで地元の合唱団をバックに演奏する計画だ。
(文と写真 明珍美紀)
毎日新聞 ‘ひと’ 欄
1998年
1996(アルゼンチン)
アタウアルパ・ニッポン
13歳のとき、'栗毛の馬'を聴き、その魅力に釘付けとなり、ただユパンキのようになりたくてクラシック・ギターとスペイン語を学んだ。
1989年にはセロ・コロラドにおいてマエストロに会う好機を得、その後は世界をまたにそのレパートリーを演奏活動。
そして昨夜ついに、師のナンバーとともにコスキンに登場....。
(見出し文より)
クラリン紙 (アルゼンチン)
1996年